日常で感じたこと

祖父と私の家父長制

一年に一回ぐらいのペースで、個人ブログじゃなくてNoteに乗り換えようか迷う。

このブログの維持にはそこそこの金額がかかっているのに、ほとんど更新できていないから。

今回も2ヶ月ぶりぐらい。誰が読んでくれているのかもよく分からないしね。

それに引き換えNoteなら無料だし、スマホからもいつでも書けるし、読んでくれる人からのリアクションもわかりやすい。

0:100ぐらいでNoteに軍配が上がるんだけど、いつも最後に思い出す理由をこの天秤に乗せると、70:30ぐらいで個人ブログのほうに戻っていく。

このブログを始めたのは、多くの人に読んでもらいたいからじゃなくて、自分をさらけ出せる心理的に安全な小部屋がインターネット上に欲しかったからだった。自分の部屋のように模様替えができて、壁紙やフォントが変えられるような。

ポリコレに沿わなかったり、炎上を恐れて誰かを批判できなかったり、自分の立場を懸念して書くことを断念することがないように。

大勢の見知らぬ人の前でストリップをすることはできない。私がNoteを始めた日には、私の文章は全方位に配慮しようとした別物になるだろうと思う。

誰にも読まれないつもりで書く。そういう文章だけを気に入ってくれる人がいるのを知ってる。

 

断片的な夢を見た。母方の祖母と電話していると「おじいちゃまが隣にいるからちょっと替わってあげて」と言う。

私は家族の誰よりも祖父と折り合いが悪かったので、内心面倒くさいと思いながら、もうこちらもいい大人なんだしそれなりに穏やかな反応を心がけているので、替わってもらうことにする。

「もしもし」認知症と胃瘻でしゃべれなくなったはずの祖父の声がする。何を話したかは覚えていない。話す前に目が覚めてしまったのかもしれない。

その数日後に祖父が亡くなった。

きっとあれは虫の知らせなんてものじゃなくて、私の罪悪感が夢の中まで追いかけてきたのだと思う。

 

記憶にある祖父のことを書いてみる。

大体1930年生まれ。高知県のいい家柄の出身らしい。武士の家系だとかで、私は見たことがないけれどどこかに立派な刀を持っているとのこと。坂本龍馬の掛け軸を和室に飾っていた。(一時期躍起になって家系図を作っていたようだけど、祖先が武士というのは個人的には疑わしいと思ってる。日本人の99%は農民だったんだよ?よくて豪農とかじゃないの。)

「遠野の馬骨」という大昔の怪談で説教をたれてくる。「ーやの、こつ!!」みたいな変な抑揚で。内容はもう一ミリたりとも覚えていない。

冗談のセンスがない。「ハリーポッチャリーはおもくろいか」などとハリーポッターを読んでいた私に50回ぐらい言ってきた。

私から見ると病的に几帳面で、家族にもそれを強要する。応接間での飲食は許されなかった。

厳格で理不尽で非合理的なルールが山ほどあり、小言がめちゃくちゃに多い。(ほとんど言いがかりだと思っていた。)

天皇家のカレンダーを毎年居間に飾っていた。

権威主義的で、本人も常に偉そうに振る舞っていた。

彼には三人の娘がいて、ほとんど全員が盲信的に彼のことを愛していて、うち2/3が出戻りだ。(父と娘の愛というより、私は彼女たちが、祖父または限りなく祖父に近い人と結婚したかったんじゃないかと思う。恋愛というより結婚。婚姻によって男性の庇護下に入ること。それと引き換えに支配されること。それが彼女たちの信じる愛の形なんじゃないか。)
意思と個性が強い三姉妹のことを、どうやって育てればあんなに綺麗に洗脳できたのだろうというのが私に残された最大の疑問。ほんとうにどうやって?時代の助けだけでは足りないと思う。

 

なぜ私が彼のことを毛嫌いしていたかという点だけど。

彼の権威主義が家の中まで持ち込まれていたから。威張り散らしていた大人の男だったから。金としつけで家族をコントロールするような人だったから。母の盲信する父だったから。

祖父の話を信じるならば、彼は特権階級の出身で、戦争に行かなかったこと、身近な家族から犠牲者を出していないこと、それゆえに天皇一家のカレンダーを飾るなんていう真似ができたのではないかと思っている。

その後貿易会社に長年勤め、横浜と神戸に住み、週6日も働いて、家族を養い、せっせと貯金もし、早めにリタイアして祖母と海外旅行に行った。恵まれた人生に見える。

彼は内省したり、自分の特権性を顧みたことはあったのだろうか。どうもそうは思えないんだけど。

一緒に食事をしていてうっかり政治的な話題になったとき、日本という国を崇拝している祖父と、成長してそういうものに疑いを持つリベラルな考えの私は何度か激しい言い争いになった。

話し合えたもんじゃなく、なぜ母国を批判するんだ、焼け野原からこんなにも復興と経済成長を遂げたのに!日本は神がかった国なんだ!みたいな一方的なクレームだった。

彼の権威主義は、家の中では自分を頂点としたエコシステムになった。

家に遊びに行くと、祖父はもちろん玄関で出迎えたりなんかしない。私たちがわざわざ祖父の二階の書斎に出向き、ノックをしてただいま参りましたみたいな挨拶をしにいかないと意地でも彼から顔を見せることはなかった。

毎回毎回うんざりさせられるこの儀式は、彼が一番偉いのだと私たちにすり込ませようとしているのだと思った。

家事は当然、女の仕事。
ごくたまに祖父が料理をしたとき、米のとぎ汁が完璧に透明になるまで洗わねば気が済まず、豚の角煮は少ししか皿によそわれなかった。リンゴの代わりにバナナの入ったカレーはまずかった。

食後には必ず、実家ではなかなかお目にかかれないような立派な梨や林檎を祖父が剥くのが恒例だった。「おじいちゃまの果物」をありがたがって食べないといけない。一連の儀式だった。毎回むかつきを覚えていた気がするけど、果物はさすがに美味しかった。

 

親族が揃って食事をするとき、ダイニングテーブルが全員が座れるほど大きくなかったので、子供用のテーブルが別に設けられた。

小さい頃はそのテーブルに妹と、従兄弟のお兄ちゃんたちと座っていた。
大きくなると従兄弟二人が大人用のテーブルに移り、その代わりに叔母たちが子供用のテーブルにつくようになった。そこに後々は従兄弟の子供たちも加わることになった。

ある日、その子どものひとりがなぜ自分はこっちのテーブルなの?と聞いた。

私は「女と子供の席はこっちなの」と皮肉り、それが現実とこれっぽっちも違わないことに自分でショックを受けた。

ごく自然な形で、家父長制が家の中にあった。

 

私が第一志望の大学に奇跡と苦労の末に受かり、母が祖父にそれを報告した。

「おじいちゃまは貴女にミッション系の大学に行って欲しかったみたいよ」と帰ってきた母はそう言った。

そのときの怒りの棘は、まだ胸に刺さっている気がする。このたった一言が。

おめでとうも言えないのか。あんなに頑張って受かったのに。私がクリスチャンだったことは一度もないし、そもそも祖父だって違うのに。良家の子女っぽい選択をしてほしかった?どこからどうみてもこの中流家庭で?

どうしてそこまでコントロールしたいのか。そんなに世間体が大事なのか。そして母はなぜ私にそんなことを伝えてくるのか。

 

自分の抜毛症における大きな課題が母との関係にあるのはもう自覚しているところだけど、うちの場合はさらにその上の祖父からの連鎖的な影響があると思っている。

子供は自分のもの。最善の結果になるように親である自分がコントロールできるものだという考えが染みついている。

私はそれを苦々しく思っている。この考えが、確実に、120%、自分の中で断ち切られるまで、子供を持とうとすることはないだろう。

 

聞くところによれば生まれたときから反抗していたらしい。
幼い私は祖父に早々にNOを突きつけた。これまでに家の中で誰も祖父に逆らったことがなかったので、それをみた叔母はびっくりして「この子は新人類だ!」と確信したのだとかなんとか。

母への反抗心に気がつくのが大分遅かったのだけれど、祖父へのはわかりやすかった。

というわけで、私がこれまでの人生で一番反抗した相手がこの祖父ということになる。

 

そんな人が死んだ、というのは私にはどういう影響を及ぼすのだろう。ここしばらくそんなことを考えている。

正直、あまり悲しくはない。ドイツにいることを口実に葬式にも行かなかった。

後日送られてきた親族の写真を見て、母と叔母の顔が、喪主である祖母なんかよりもずっと痩せこけて憔悴しきったように見えたことにうんざりしただけだった。

晩年の祖父は認知症になった。だんだん食卓での会話がかみ合わなくなり、日本の脚色された歴史を交えた妄言が続き、誰も彼と会話を続けることができなくなってそして静かになった。

かと思えば正月に乾杯の音頭を任されたときは、不明瞭な発音ながらそれらしい文言を延々と話す姿に私はサラリーマンド根性を見て非常に感心した。

父の運転で昔勤めていた会社の近くを通りかかったときなどは、突然「○○さんに電話してくれ!」とか「△△に挨拶に挨拶に行かねばならん」などと急に精気を取り戻し、勝手にどこかに行こうとしてなだめるのが大変だったのだとか。

悪口ばかり書いてしまったけれど、彼が身を粉にして週6日も働き、真面目に家計をやりくりしてくれたおかげで今の家族の生活があるのは、とてもありがたいことだ。

 

晩年は、認知症からの誤嚥性肺炎、入院、コロナ禍だったために誰も面会が許されず、退院するころには認知症がどうしようもなく進行していて、そこから胃瘻、施設へ入居という流れだった。

それでも母たちの意地で、週末だけは自宅に引き取って介護をするという誰にとってもハードな生活が3年ほど続いた。

祖父は娘たちにおむつを替えられるのをものすごく嫌がったらしかった。

年始にみなで集まったとき、一瞬だけ祖父が正気を取り戻した瞬間があった。
そのときのことを私は忘れないだろう。彼は誰に優しい言葉をかけるのでもなく、
「儂に恥をかかせるな」とだけ言ったのだから。

これがこの人の本質の一部でなかったらなんなのだろう。

ショックを受けていたようだったのは私と隣にいた天使だけで、母たちはその後もものともせずに介護を続けた。

「ありがとう、おまえがいてくれて良かった」「おまえが一番頼りになるよ」

そんな最期の言葉を期待していたのではないかと思う。もしかしたら姉妹間で彼からの信頼を奪い合っていたのかもしれない。

自分の物事の見方が穿っているのはよく分かっている。でも娘の立場からはそうとしか見えなかったよ。

 

いくらいけ好かない相手だろうと晩年の彼の状態は、尊厳のある人間の終わり方ではなかった。
胃瘻で、寝たきりで、しゃべれず本も読めず、おむつだけを交換されて。

元気だったころは何時間でも自分の書斎に閉じこもって作業していたのに、遺書の類いは見つからなかった。だから祖母と母たちが介護の方針、大好きな祖父の延命を決定した。

女に高等教育は要らないと信じていた節がある彼にとっては、残酷なしっぺ返しだったのかもしれない。
妻と娘たちのことを平等な人間として扱い、普段からコミュニケーションをとっていたなら、彼女たちも彼のことを平等な一人の人間として見て、最善な決断をしてくれたかもしれないのに。

今は彼がその苦しみから解放されたことにほっとしていて、安らかに眠って欲しいと思う。

 

きっとこれが私にとっても一時代の終わり、自分の苦しみの一つの終わりではないかと思う。

こういう感覚、そのときに考えていたことは、日に日に薄れていって思い出せなくなってしまう種のものなので、この機に文章にしてみた。

このブログがあってよかった。また近々なにか更新しようと思う。