日常で感じたこと

『ハリー・ポッター』作中での人種差別

こんな悲しいタイトルでブログを書く日が来ようとは夢にも思わなんだ。

近年SNSなどで作者のJKローリングが炎上し、日本語圏にもその煙が流れてきているのを見た人も多いのじゃないでしょうか。

20年来のファンとして、そんな噂が立つこと自体があまりに悲しい。けれどこの21世紀にこの手の問題を見なかったことにしてファンは語れないので、主に英語圏で議論されている問題点をまとめて日本語で紹介し検討したいと思う。
検討となどいうほど立派なことができるのかは疑問だけれど。

でも本題に入る前に私とハリーポッターについての思い出を書いておきたい。
具体的な問題点だけを知りたい方は後半からどうぞ。

私とハリーポッターの出会いは1999年。小学校一年生だった。
母がどこかから評判を聞いて買ってきた分厚いその本は、ようやくかいけつゾロリをなんとか続けて読めるようになった私にはまだハードルが高かった。

毎晩寝る前に母が朗読してくれていた。母にとっての誤算だったのは、賢者の石があまりにも重く、絵本の読み聞かせのときのように寝転んだ姿勢で読めるものではなかったこと。それから私があまりにも物語の中にのめり込んだせいで、まったく眠ろうとしなかったことだろう。
もう少しだけ読んで。お願い!あと1ページだけ。

一巻の最初のハリーの境遇が気の毒でならず、ハリーにうちに住んでもらえばどうかということを真剣に親に提案したことを覚えている。

ある日のこと。朗読の最中に電話がかかってきた。私たちが子供の頃、母はしょっちゅう誰かと長電話をしていた。それはもう延々と話すので母が受話器を取ったその晩私は覚悟を決めた。母はしばらく帰ってこない。だったら自分で物語の中に戻るしかない。

亀のようなスピードで一文字ずつ追い始めた。読めない漢字や知らない言葉がたくさん出てきたけれど、私は止まらなかった。小学一年生にも分かるぐらい、その物語が面白かったから。
(組み分け帽子の歌の「君を私の手に”ゆだね”」という言葉の意味が分からなかったのを覚えてる。湯だね??)

私は夢中になった。ハリーポッターは私にとって読書の楽しさを初めて教えてくれた本だった。

もうちょっと語らせて欲しい。
学生時代、その当時に発行されていたシリーズ全てを読破し何度も繰り返し読むうちに、文章まで覚えつつあった。ハリーポッターを英語で読めるようになりたい!いつか原文で読めるようになれば、日本語版よりも先に読めるのではないかと考えた。

さっそく洋書のペイパーバックを購入し、ページを開いた。
第一章のタイトルは”The Boy who Lived”。ここで早々に躓いた。早すぎる。一章のしかもタイトルで。笑
生きた男の子?日本語版では「生き残った男の子」とされているのに。
Live(生きる)という単語は知っていても、「生き残る」というニュアンスがあるかどうか辞書には載っていなかった。気になって調べたけれど解決にはたどり着かず。。。
あの頃よりは多少英語が使えるようになった今でも、Live=生き残るという例は他に見たことがない。意訳だったのかなぁ。

一歩目で躓いてそれきりになってしまったけれど、英語へのモチベーションが上がったことは確か。それは私の好奇心の扉を日本の外へと開いてくれた。

大人になって改めて考えたこともある。それは赤ん坊のハリーがなぜ生き延びることができたのか。物語の中ではそれは母であるリリーがとっさに古からの愛の魔法をかけたからだと説明されている。
私にはこれがハリーの命を守っただけでなく、その後孤児として逆境で育つ中でも腐ることなくまっすぐな大人になることを助けたのではないかと思う。自分が思春期を抜けた後にふと湧いてきた勝手な想像だけども。

こんな風に、私はハリーポッターシリーズのことを勇気と愛と魔法の物語として胸に抱いて大人になってきた。
その間に映画化によって物語はビジュアライズされ、大旋風を巻き起こした。私は映画版のファンではない。私にとってのハリーポッターのイメージは、強いて言えば各章の挿絵にあった棒きれのような人のイラストだ。シンプルで時に不気味なその絵がなによりも強烈だった。

ダン・シュレシンジャーという作家の作品らしい。なんとも素敵なことに公式ホームページで作品が見れるようになってる。
https://www.danschlesingerart.com/category/harry-potter/

 

ワーナー・ブラザーズによる映画化が続き世間が盛り上がる中、私は大人になる過程で世界には「人種」という区別があり、それぞれに異なる歴史がありその中には悲惨な搾取も多数含まれていて、それが現代社会での境遇に繋がっているということを知った。

日本生まれ日本育ち日本語翻訳で楽しんだハリーポッターの世界と、現実の日本とイギリスと、それらは完全に独立したものではなくてどこかで繋がっているのだと知り、現実世界と空想世界を照らし合わるとき、改めてハリーポッターがどんな世界観なのか新しい発見とショックがある。

近年のトランスフォビア的な発言が炎上し、それを契機にハリーポッターの世界が検証されるようになった。こういう点が差別的では?という問題提起は主に英語圏で起きているようで、日本語ではほとんど見かけない。しばらく前に一連の流れの要約を日本語で紹介するツイートを見かけて私も興味を持った。

JKRのトランスフォビアの件に関しては別の記事で書いているので、今回は『ハリー・ポッター』という世界の構造、人種差別とされている点を拾っていこうと思う。

英国の白人以外のキャラクター設定の甘さ

チョウ・チャン(レイブンクローのシーカーで、ハリーの初恋の相手)
よく考えたら何この名前?名字が二つ?中国語っぽい感じもするけれど、中華圏の人からしてもへんな名前らしい。アジア系を侮蔑する呼び方「チンチャンチョン」を想起させる。
私もさすがにこれは変かもしれないと思う。
キャラクター設定も小柄で、おとなしくてとても可愛い、となっていて、アジア人のステレオタイプの枠をで出ない感じ。
ちなみに映画の中のホグワーツで唯一の東アジア系。

 

キングズリー・シャックルボルト(不死鳥の騎士団の闇祓い)
彼については作中でアフリカ系の男性であるという明確な描写がある。問題視されているのはその名字について。
シャックルボルトという名字自体は実際に存在する名前であるが、あまり広くは知られていない。(アメリカの記録によれば国内の登録者は600組前後とのこと。)
しかし、「シャックルボルト」という単語は人間を繋いでおくための道具の名前だったことから、黒人男性ということと相まって奴隷制を連想する人が英語圏で多数発生している模様。

実際にシャックルボルトが奴隷制に由来する名字であったのかどうかは調べきれなかった。(当時は解放時に元所有者の名前を与えられる、もしくは別の名前をつけられる、もしくは行政による割り当てなどが主流だったようです。)
またこの名字に関しては悪人を捕まえて足かせをする警官が由来する名字である可能性もあるとのことで、この点に関しては未解明、ファンの先走りかもしれない。

シェーマス・フィネガン(グリフィンドール、ハリーのルームメイトの一人)
私はこのことを知らなかったのだけど、「シェーマス・フィネガン」はアイルランド系の名前で、イングランドでは「ジョン・スミス」に相当する名前だとのこと。日本語だと山田太郎とか?あまりに適当なのではという指摘が一つ。それから更に穿った意見としては、
シェーマスが爆発系の呪文や火薬に優れていたため、ホグワーツの戦い時にはマクゴナガル先生が橋を爆破するためにシェーマスを指名した。このことはアイルランド共和軍テロ・爆破事件を彷彿とさせるのではないか、と。
個人的にはこれはかなり類似性が高いんじゃないかと思うんだけどどうなんだろう。英国出身の人に聞いてみたい。

グリンゴッツのゴブリン(魔法使いの銀行グリンゴッツを経営する小鬼。)
鷲鼻で、金勘定に長け、独自の言語を話し、時には特別な帽子をかぶって、借金の回収に取り組んでいるという設定になっている。
これが欧米でのユダヤ系の人々に対するステレオタイプに酷似している。他の職業への就業が制限されていたために金融業に就くことが多かったこと、へブライ語を話すこと、ヤルムルクという帽子など。
反ユダヤ主義的ではないかという議論が巻き起こされている。

 

参考
https://www.pedestrian.tv/entertainment/harry-potter-racist-names-cho-chang-kingsley-shacklebolt-tweets/
https://www.reddit.com/r/EnoughJKRowling/comments/kaxw28/i_made_a_list_of_examples_of_racism_prejudice_and/?rdt=37917

人物修正主義

人種問題への疑念のほかにも、JKローリングの描く人物像の設定が変更されることがあり、人物修正主義だという指摘もある。

ダンブルドアは同性愛者だという後付けの設定。私もこの情報にはずいぶんと驚いた覚えがある。書籍シリーズが完結した後に作者がインタビューかなにかで明かしたことだった。
作中にはそのような描写がまったくなかったと思う。ダンブルドアの出番は物語の後半にかけて大幅に増えていくのに、それについてまったく語られなかったのが不思議な気がする。

物語への影響はそれほどないかもしれなけれど、最高の魔法使いかつ皆に慕われる校長がゲイだと描かれていたなら、そのことによって励まされたり親近感を抱く読者いたのではないだろうか。

ハーマイオニーを黒人とした場合
2016年に『ハリー・ポッターと呪いの子』(JRローリング原作、ハリーの子を主人公にした作品)の舞台がロンドンで公演された。
このときインターネットを賑わせていたのは、ハーマイオニー役にアフリカ系の俳優ノーマ・ドゥメズウェニが起用されたことだった。
JKローリングはこのことについて、ハーマイオニーの特徴は、茶色い目、縮れた髪の毛、そしてとても賢いこと。これらはノーマにぴったり一致する。”Rowling loves black Hermione 😘”とツイートしている。
これまで読者が無意識に想定してきた白人のハーマイオニー、また主要な登場人物の大方が白人であること、また映画化を通じてエマ・ワトソンによって強化されてきたイメージがよい意味で壊されたできごとだったのではないかと思う。

ただし、この時点でハーマイオニーが黒人である(可能性がある)とした場合、物語に影響が出る。

ハーマイオニーが黒人であれば、人種差別に関するテーマはより尖ったものになります。ハーマイオニーは、ホグワーツで屋敷しもべ妖精の奴隷化に恐怖を感じているただ一人の人物であることを思い出してください。彼女が黒人である場合、彼女の同情は必然的に彼女の人種的アイデンティティー、つまり自分自身の疎外された地位と同胞の歴史についての知識に根ざしたものになります。同様に、ドラコ・マルフォイや他の人たちによって彼女に投げかけられた人種の形容詞は、より大きな重みと醜さを帯びています。マルフォイが彼女を”filthy little mudblood”(直訳:汚らわしい小さな泥の血)公式日本語訳:汚れた血)と呼ぶとき、彼は彼女の両親が魔法使いではない、つまりマグルであるという事実に言及しています。しかし、ハーマイオニーが黒人なら、それは人種的侮辱としても読まなければなりません。ハーマイオニーが白人でないなら、「泥の血」の「泥」が茶色であるのは偶然ではありません。

The Guardian よりGoogle翻訳

これに関しては原作を書いた時点から大分広がった話になってきていると思う。そもそもJKRは続編を書こうと思っていなかったかも知れないし、それの舞台化なんてなおさら考えていなかっただろう。

 

Genaの考察

英語圏での気になる指摘を一つずつ拾ってみて、言われてみればそうかもしれないと気がつくことは多かった。

ヨーロッパ、アメリカにおける人種ごとのステレオタイプは、日本人にとってはなじみが薄いかもしれない。
しかしどういうステレオタイプが存在し、そこから派生した差別があるのかをなんとなくでも知ると、JKローリングも従来のスレテオタイプの範囲でキャラクターを作り出しているのかもしれないと思った。さらに膨大な数の読者がそれを無意識的に受け入れているかを考えれば、スレテオタイプの助長とも捉えられるかもしれない。

それと同時に、私がそれでもファンとして擁護したいのは、そもそも彼女はたった一人でこの広大なファンタジーの世界を作り上げたということ。現実世界のルールを適用できない分、想像力でそれを補っている。

そしてこういった人種の問題やポリティカリーコレクトネスはどうしても時代性が伴うもの。
一昔前は受け入れられた表現が今はアップデートする必要がある、という事象は多い。そうしたらそのときに必要に応じてアップデートすればいいのではないかと思う。

映画化、舞台化などビジュアライズしたことで制作側の潜在的なステレオタイプの片鱗が現れた側面もあるかもしれない。でもそれがJKローリングひとりの責任だとは到底言えないのではないか、というのが私の個人的な結論。

ただし、トランス女性への差別的な発言については同意しかねることはここに示しておきます。

私の子供時代を豊かにしてくれた素晴らしい物語に感謝して。

 

 

最後に、私の一番のお気に入り。江守徹さんの朗読のオーディオブック。これ最高なんだよ!
素晴らしい物語を堪能できます。疲れているときの睡眠導入にも恐ろしく効果あり。