抜毛症

私のことと家族のこと。

久しぶりにブログを書くことにする。
性懲りも無く、また家族のことについて。

私がどうしても海外に出たかった一番大きな理由は、苦しい記憶のある場所を出たかったからなのかもしれないと最近そんな風にはっきり思った。
ベルリンに移住してから1年が経つけれど記憶は消えないし、存在は薄くならない。
物理的な距離を稼ぐだけでは逃れられないということは、きっと問題は私の内側にある。

今日も久しぶりにテレビ電話をした。
父も母も元気そうだった。妹が産んだ初孫が可愛くて仕方がないようで、孫の相手をしていると自分たちも若返るようだと父は言った。
じいじという呼び名に対して、なぜか母のことは「カンカンカン」と呼んでていると聞いて私は爆笑した。

他愛のない会話をして電話を切り、私はドイツに来てまで、30代になってまで一体なにを避けているのかが分からないような気持ちになる。

自分の中に家族に対する強い愛着とそれと同じぐらいの違和感がある。
その違和感がときどき鳴らす警鐘を私は無視することができなくて、だから本能的に身の安全のために距離を取る。

パートナーの一時帰国に意地を張って一緒について行かなかったのもこんな理由だった。

その警鐘ってなんなんだろうか、と頭をひねってみる。
この問題を考えるには、たぶん私は自分の深層心理に近いところまで潜らないといけなくて、問題自体に触れようとすることは可能ではあるんだけど、いつもとても混乱する。
ちゃんと考えたり、はっきり感じたりすることが難しい。

精神的に調子が悪いとき、家族のことを考えている。
家族のことを考えるから具合が悪くなるのではなく、調子が悪くなりそうなときになぜか家族のことが頭に浮かんで離れなくなるのは、多分そういうことなんだろうと思う。

今回のブログで、これまで断片的に、でもずっと長いこと考えてきた家族についての違和感をまとめようとしてみる。

端的に言ってしまえば、私の中で家族のイメージは分断されていることが一番の原因なのだと思っている。

私が自分の家族(自分を含めて)に対して感じている家族像
①幼少期の家族像、原家族
父、母、私、2歳下の妹。子供好きの両親は、サザエさん&マスオさん×あたしンちのお父さん&お母さん÷2といった国民的なキャラクターを使った例えがしっくりくるぐらい、平和な家庭だった。

多くの人が自分の家は”中流”だと思うらしいけど、私も例外なくうちは中流家庭だと信じていた。(今でも割とそう思っている)
欲しいものがなんでも買ってもらえたわけじゃないけれど、習い事をたくさんさせてもらったし、週末には祖父母の家や大きな公園に連れて行ってもらった。
何不自由なく育ててもらっていたごくごく平凡で、明るい4人家族としての家庭。

とても幸せな子供時代だった。私の世界は盤石だった。
今でもふと昔のことを思い出すと、泣きそうになる。

私が大人になる前に最後に幸福だったときは9歳で、毎日が本当に楽しくて、世界は輝いていた。

 

 

長らくこれが自分の家族像だったのだけれど、本当は現実は違った。
少しずつズレが生じているのを気がつかないようにしてきた。たぶん、家族全員で。

そして家族の中で私は長い間苦しむことになる。
会話もろくになく、体裁だけが整って見える、空っぽの関係。家族がこういう状況になっていることに気がついたのは私が高校生の頃。
今振り返れば私の持つ家族像の変化の過渡期と思われるサイン、個人的な体験がある。

②10歳〜14歳の過渡期
自分の子供時代の終了は10歳、小学校4年生のころだと自覚している。
これまではなんでも元気にやっていれば大体のことが許されてきたけれど、突然世界のルールが変わったような感じがしたのを覚えている。
字は大きくて濃く書くだけじゃだめで、お手本のように綺麗に、女の子らしい筆圧で書かないと印象が悪くなる。
女の子のお友達への配慮が格段に難しくなった。人間関係の構築と維持も。

母からの期待についていけなくなり始めた。ずっと成績優秀でクラスのリーダーをするような良い子だったけれど、そのポジションをキープし続けられなくなった。字が汚いこと、がさつなこと、子供らしくて可愛い子供服が似合わないほど身体が成長したこと(小六のときには165センチぐらいあった)、それなのに子供のような自制心のない振る舞いをしていたこと。
たぶん、そのようなことのすべてが彼女の望んだ結果ではなかったのだと思う。

今振り返ると当時の自分の周囲への変化をすらすら書けるけど、当時はもちろんこんな風に認識できていなかった。私は周りの変化に気がつくのがとっても遅くて、だから皆の変化について行けず、子供のままだった。
それが周囲との摩擦、家族との衝突に繋がっていたのだと思う。

私は髪を抜き始めた。

③14歳〜25歳ぐらいまでの家族像
14歳で転校して不登校になる。
人間関係やファッションの好みから、妹と私の”人種”が違うことがはっきりわかり、お互いを罵り合うような激しい喧嘩を何度も繰り広げた。
両親はずっと手のかかる幼児を家庭の中心においていたので、私たちの成長によってその明るいエレルギーを失って、以前とは違う様子を見せていた。私たちを1から10まで世話をする必要がなくなった母は、それでもそのエネルギーを干渉やコントロールに使うようになった。(私たちが嫌がって逃げ出したあとはそれは父に向けられた。)
母の作る料理が変わった。
両親の仲に関して言えば中年の危機もあったのかもしれない。
私は自分なりに、両親の間を取り持とうとしたり、親戚の幼児の話をしたり、自分たちが子供のころのホームビデオを流したりしていた。
食卓ではほとんど会話が成立しなかった。

さらには祖父母の介護があり、親戚づきあいが崩壊する過程をまざまざと目撃し、幸福な子供時代の終わりを周回遅れでそこでようやく知った。

私は毎日恐ろしい量の髪を抜いていて、本当に助けが必要だったと思うんだけど、この件に関しては誰も助けてくれなかった。
(25の時、家族旅行で行った温泉で私の髪が本当にハゲていてやばいという指摘を母と妹から受け、私は裸のままパニックになった。この出来事が③の家族像を象徴しているような気がして、それ以来あまり近づかないようにしている。)

妹は反抗期を迎え、多くの時間を家の外で過ごすようになっていた。

 

このときも、私だけが変化についていけず、上手に対応できなかったんだね。
今文章を書いていてはっきりと自覚したようなもの。
精神科医が私に下した「幼少期からの長期化した適応障害」にすごく納得感。

 

とまあ、こういう経緯があり、私の家族像はいくつかに分断されている。
私はどうしても家族の変化についていけなかった。もしついて行けたのなら、①②③の家族像は変化しながらも連続したものであると認識できたのだろう。

でも私には長い間その自覚がなくて、家族像①と③がまるきり分断された別物のように感じる。
あの家の中で生まれ育ったはずなのに、その前後がどうしても結びつかない感じがして。

私は昔の家族に会いたかった。私のおとうさん、おかあさん、れいちゃんに会いたかった。みんなで川の字で寝て、お母さんの半袖から手を入れて、夏でもひんやりしてる二の腕に触りながら安心して眠りたかった。

もう二度と会えない人たち。
でも実際にはその人たちは誰一人欠けることなく平等に歳を重ねて、今の世界に生きてる。

いっそのこと本当に二度と会えなかったら、この訳の分からない苦しみから解放されるのじゃないかと思ったりもする。

苦しいのは、きっと昔の家族と今の家族を統合させないといけない、向かい合わないといけないと直感しているから。

娘二人が家を出て、さらには孫が生まれたことで、私以外の家族のメンバーはときどき①のような穏やかさを見せるようになった。

新たな家族像④? 3人はその変化をごく自然に受け入れて馴染んでいるように見える。

私はその変化を疑いの眼差しで見てる。本当に?あれだけのことがあった後で、また穏やかで平和な家族ごっこをしているんじゃないのっていう醜い疑い。
だって私の抜毛症はまだ治っていない。
もし次に、誰かの身に似たような問題が起きたらそれも見ないふりで過ごすんだろうか。ってどうしても思っちゃう。

こういう風に変化についていけないこともまた、私の適応障害が解決していない証拠なのかもしれない。

今回の文章を書くことでかなりまとまったものの、私はまだまだ自分の身になにが起こったのか、私の家族がなぜどう変質したのか今でも納得の行く理解ができずにいる。

そういう意味で家族にずっと疑いの目を向けていた私には、家族を尊くて揺るぎのない存在として描く映画やドラマには神経を逆なでされた気がしていた。

そんな中で読んだ森絵都の小説に、魂ごと救われた気持ちになった。
美化されない、不完全な家族。こういうものこそがとてもリアルな家族なのじゃないかと、自分以外の人が書いてくれた物語に居場所があったような気がした。

家族像の分断は、私の人生に大きく影響しているような気がする。
自分の幸せのために、早めに解決できたらいいのだけど。