外見至上主義な大学キャンパスに足を踏み入れて、抜毛症が悪化した話
なんとか受験に成功して、第一志望の大学に入学することができた。
高校受験も大学受験も、あんなに不安定で気力があまりなかった中で、ほんとうによく頑張ったと思う。
頑張った分、ご褒美として合格をもらった。
でももぎ取れたのは合格だけで、そこに付随しても良いはずの「楽しい生活」や「役に立つ(はずの)学歴」が得られなかったのは大きな誤算だった。
(学歴が役に立ったことはこれまでの人生で 一 度 も な い 。 一度も。)
希望する大学への進学というと、明るい未来に向けての楽しい生活というイメージがある。
これが光だとしたら、影の部分もあることを忘れてはいけない。
私が影の部分だと思ったのは、大学のキャンパスが一般社会のような階級社会であったこと。
そこでは
外見のよさ+コミュ力+教養+育ち+これまでに培ったコネクション
といった変数で人が判断される。
なぜか人間関係もすでに出来上がっていて、そんな場所に予期せず放り込まれたことは私をとても消耗させた。
光:影=2:8 って感じ。
東京の有名私立、なかでも一番偏差値が高い学部、かつ国際色が強い学科というのは上記のような環境だと思ってもらっていい。
山内マリコという作家が『あのこは貴族』という小説の中で、慶応大学と舞台をとても詳細に書いてくれている。まさにそのとおり。
地方出身のサラリーマンの娘/息子(純ジャパ)だったりした日には、経済格差まで加わりプライドが回復不可能なほどまで落ち込んでしまうこともあるだろう。
大学入学はスタートラインなんかではない。
持てる者たちは社会に出る前の最終仕上げぐらいのつもりで通ってきている。
就職を見据えたインターン、卒業後に役に立つ人脈づくり、語学力と欧米式の教育の成果による論理力をフル活用した学業の仕上げ、第3外国語を身につけるための短期留学、自分に見劣りしないスペックと外見の伴侶探し、などなど。
抜毛症とコミュニケーションに課題を抱え、自分のやりたいことを少しずつ見つけられたらいいな、なんてのんびり思っていた私にはシビアな環境だった。
話を少しだけ山内マリコの著書に戻すと、彼女はこの物語の結論として、
日本は巷で言われているような経済格差社会なのではなく、【身分階級】社会なのだ
と結論づけている。私には、これが正解だと思う。
階級に気がついたのは大学生活の後半になってから。
とりあえず前半の2年は見た目でほとんどすべてが判断される事実に怯んで、怯えてしまって周りの状況を客観的に捉えてる暇なんてなかった。
新学期に限らず、大学デビューする人たちの気持ちがわかった。
美しくなかったり、おしゃれでないとほんとうに透明人間のように扱われてしまうから。
語学のクラス単位での飲み会も、地味な子は話しかけられない。サークルの勧誘のチラシ配りに素通りされ、隣のかわいい子にだけ渡している。
でも私は大学デビューという選択をしなかった。
どうやればデビューできるのかも知らなかったし、自分が少しでもマシになれるとはどうしてもどうしても思えなかったら。
自分の外見にものすごく自信がなかった。頑張れば自分にもポテンシャルがあるとも思えなかった。
振る舞いも女の子らしくなく、体格も平均よりずっと大きかった私は、自分が(特に異性を含んだコミュニティーの中では)どう見られているかよくわかっていたつもりだった。
幼少期から自分の扱われ方は自分の身に染み込んでおり、そんな自分には「ふつう」はものすごく遠かった。 (これは今でもそう思ってる。)
そんなこんなで、自分は外見でも学力でも社交力でも、周りに大きく劣ると認識せざるを得なかった。これはとてもつらいことだった。
私は単にこじらせてネガティブに考えてしまったのではなく、周りがそれとなく、ときには明確に教えてくれた「事実」だ。
私は馬鹿みたいにそれを受け止めてしまった。
大教室の授業、少人数制のクラス、ランチの時間。
居心地が悪くて、びくびくしていた。友人が一人も見かけなかった日にはどうしようもないほど怯えていた。
都内有数のマンモスキャンパスの中で、ひとりぼっちだった。
せっかく入った大学をやめようとまで思い始めていたが、大学3年になって状況が少し良くなった。
研究目的の少人数クラスは、学生同士で話し合ったりする時間も多くて、
そこでは外見以外の「自分がどういう人間であるか」ということの比重も大きくて、
私は少しづつ馴染むことができた。