日常で感じたこと

初代彫蓮 インタビュー

まえがき

初代彫蓮という人に初めて会ったのは、去年の11月のことだった。

私が所属するNPO法人のASPJに、Lotus Soulから共同制作の依頼があり、モデルさんを何人か出すことになった。その企画に私はモデルには選ばれなかったけれど、女性の彫師さんと聞いて興味がわき、勝手に撮影に同行することにした。

頭まで綺麗な彫り物の入ったその人が初代彫蓮だった。想像していたよりも小柄で、紺色の作務衣を着ていた。

世の中には、必要以上の緊張感や威圧感を与える大人がいる。私はそういった人がとても苦手だった。彫師と聞くと、どうしてもそちら側の人間を想像する。

あまり柄の良くない人たちとの関わりの多さからかカタギではないような迫力があり、気難しい職人肌で、その世界の礼儀や常識をうっかり逸してしまうと怒鳴り、あっという間に追い返される、みたいな。私はモデルさんたちに混じって挨拶をしながら、こっそり観察した。

撮影の準備が進んでいくと、案外気さくな一面が垣間見えた。たしかに厳しい感じはあるけれど、それだけではなさそうだった。

撮影の合間を縫って、事前に申し込んでいたインタビューを開始する。
この人のことが知りたいと思っていた。

初代彫蓮 インタビュー

家出と進学、深夜4時の渋谷

Gena(以下G) 最初に絵を書き始めたのは何歳ぐらいのときだったんですか?

初代彫蓮(以下H) 本気でっていうのはだいぶあとかなぁ。高校の美術の授業で描いた。そういえば美術部にもはいってたなぁ。でも美術部は仮の姿で、弓道もやってたんですけどね。二刀流で。

小さい頃から絵がうまいねと言われてたんだけど、全然自覚はなかった。

絵に興味があるかと言われたらそんなになかったよね。

でも絵がうまいと言われるなら、そっちの職業が向いてるかな〜となんとなく思うようになって。

なんですけど、親が勝手に結婚式場の受付嬢の就職先を決めてきちゃって、「これはあかん。家出をしよう!」と思って。卒業式と同時に家出しました。

 

G 行き先はどこだったんですか?

H 家を出ようと決めた瞬間にいろいろ考えたんですよ。未成年だとアパートが借りれないしそれじゃあ無理だなぁってなったときに、「学生になればいいんだ!」と思いついた。しかも学生寮つきのとこ!

最初の仮の審査だけで、捺印すればあとはお金を送ればいいだけだから。

G じゃあ家出するために進学したみたいなところがあるんでしょうか。

H そうそうそう(笑い)

G  進学先はどんな勉強ができるところだったんですか?

H 日本デザイナー学院。そこで アドバタイジング(広告デザイン)とエディトリアル(編集)を勉強しました。

当時はパソコンなんてないっすよ!だから筆でレタリング描くとかそんな授業だよ。写真もフィルム。ポスター全部手描きよ、字も。地獄。(笑い)

G それって今の彫師さんとしての職業に直結してたりします?

H 超役立つ。漢字とかレタリングだから。

家出したくて、専門学校に入って、寮生になって、よっしゃーと思ったんですけど、デザイン学校ってやっぱりお金がかかるんだよ。

一眼レフのカメラ買わなきゃいけない、フィルム代が!現像代がぁ〜!って。紙一枚でも鬼のように高いじゃない?

だからバイトしなくっちゃって思って。

実は高校のときから300万ぐらい貯めてて、入学金とか寮費用にね、だからそれでいけんだろと思ってたんです。そしたらあっという間にお金が尽きて。

当時ね、まだヒップホップが流行る前で、ブラックソウルがやってきて、ソウルトレインとかブラックミュージックがばーんと上がってきたときだったの。黒人だけの渋谷のバーに一人ぼっちで雇われて、汚い英語覚えて。

G すごい!!

H もうね、忘れちゃったけどね。

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G もともとの彫蓮さんの性格的には、黒人男性たちの中にひとりで入っていくのって怖くなかったですか?

H いや、ぜんぜん。いつもおんなじ曲ばっかりかけやがってみたいに思ってた。(笑い) 

そこのバーで働くようになったんですよ。学校もすごく近かったことも決め手だった。

で、そんなもんなんで毎回門限を破ることになった。だからフェンスに穴を開けておいて裏口からこっそり入れるようにしたりとかしてね。

G 映画の世界みたい!

H そしたら当たり前だけど、「出てけ!」っていわれて追い出されました。

G ちなみに門限て何時だったんですか?

9時だったかなぁ。

G 早い!

H そうなのよ。無理だよ、バー勤務でさ。追い出されるまであっという間だった。2ヶ月ぐらい。追い出された時は「どーしよー!」とか言ってた。荷物とかは同じ学年の寮生の子たちのとこにバラけて置かせてもらってて、課題のときに取りにいくっていう感じ。

丸一ヶ月はまじで野良猫状態で、今日はあのビルで寝ようとかどっかの隙間とか、そんなふうにしてた。まだネットカフェとかもないしね。そんなに警備も厳しくなかった時代だから、階段上がって「ここの屋上寝れる!」とか発見して。まじで野良猫じゃんこれって思ってた。

 

とうとう一回栄養失調で倒れたんだけど、その時の話がほんとに泣ける話で。

卒業して8年か9年が経った頃、保坂先生という方が亡くなったんですよ。
葬式に行って友だちが「実はね、言わなかったんだけど」って切り出してきて。

「私たちやたらお前に奢ってたじゃん?あれは保坂さんからお金預かってたの。
「あいつに飯食わせとけ」って。」 それを聞いて「言ってよ〜!!」って叫んだ。

 

当時の専門学校って貧富の差があったんですよ。実家暮らしだったり、仕送りがたくさんもらえるような子とかは羽振りがいんですよね。
当時80年代の終わりごろでバブルの時代だったから。

地方出身の子たちと仲良くしてたから、「きっと仕送りいっぱいもらってるんだろうな〜いいな〜」みたいな感じで、悪気なく奢ってもらってた。
それが実は保坂先生がお膳立てしてくれてたっていう話。

 

そのうちにほとほとホームレス生活に苦しくなって、バイト先はペパーミントクラブっていうバーなんですけど、日本人のボスに「ここに住まわせてください」って泣きついたら
「いいよいいよ、じゃあその代わりに大変だぞ、夜の客たち」って言われて。

「いい、いい。ちゃんとあったかいところで寝たい。ご飯も食べたい!酒も飲みたい!」とか言って。
「売るほどあるから飲んでいいよ」って言われた。

 

夜中の4時まで営業してるんだけど、案の定地獄だった。やべーやべー。

ボスがね、12時までしかいないんすよ。12時から4時が黒人だけの無法地帯になる。

そうすると黒人目当ての女たちが遊びに来ちゃって、店の中でヤるのよ。トイレとか、VIPルームの奥で。

その後を始末するのがめちゃ嫌で。

(そのほかにもいろいろトラブルがあり)人生が終わったと思った瞬間も味わったね。

 

G 私、山田詠美の小説が大好きで。

H ああ〜!いいよね。

G 彼女の作品も、日本の黒人文化圏を扱っているじゃないですか。その時代の雰囲気とか、クラブの感じとか、なんだか想像できます。

H ほんとそういう感じ。もう大変よ。

G 12~4時は本当にきつそう。

H  「〜〜〜メーン!」にイライラしてきちゃって。(笑い)

当時はね、外国人も少なかったしそういうブラックバーはすごく珍しかったんですよ。

新宿の「69(ロッキュー)」っていうところかペパーミントクラブのどっちかっていう感じで。

G 私はちょっと覗いてみたかったです〜!

H ね〜、今はね〜。もう渋谷が変わってしまったからね。ビルが全部建て壊して。

違うバーになった後もペパーミントクラブの名残はあったんですよ。その建物が壊されることになったとき、当時のメンバーで集まってお別れ会したんですよ。それが一昨年(2019年)。それまではそのビルはあった。寂しかったなぁ。

 

シェイカーからマウスへ

G けっきょくペパーミントクラブでのバーテンはどれぐらい続けたんですか?

H 結局4年ぐらい住んでた。コインシャワーもついてたし、事足りてたね。ゴキブリだけが敵。
あと使用済みコンドームと、トイレに詰まったゲロも。

あと貸し切りとかになると、渋谷という土地柄、東大生のコンパとかが入るんだよね。

なんか気取ってんだよね。「この子になにかお酒飲ませてあげて。合いそうなやつ」とかって。

でそのまま酔わせてナンパでもするつもりだったんだろうけど、男が飲む方にスピリタスとか入れて、逆にそいつを撃沈させたりとかしてた。楽しかった。

 

というわけでバーが楽しくて、学生時代はずっとバーテンをやってたの。

課題もやってたけど、学校が終わったらすぐバーに行きたいみたいな感じだった。

だから、今後もずっとバーテンをやるんだろうなと思ってたの。

 

学校を卒業してもバーテンをやってたんだけど、2年生当時の担任だった中川階っていう博報堂に勤めていた先生が飲みにやってきて「働け!!!」って言われて。

「なんでデザイン学校出てシェイカー振ってるんだ!!」と。

逆に「え、なんで!?」って。こんなに一生懸命シェイカー振って働いてるのにって思った。

「お前結構いい成績だったんだから頑張れよ!」って言われて、「いやぁここもう長いし、ここでいいかなって思ってるんですけどね〜」って言ったらちょっと諦めて帰っていったの。

 

でも後日電話がかかってきて「フランス料理食べに行かない?」って。行くよね。

店も近くて、そこで美味しい料理を食べているときにその店のオーナーの服部さんがニコニコしながらやってきたの。

「階から聞いたんだけど、絵がうまいんだって?」「いやわかんないす」とか言ったら

「マンガ描ける?」って聞かれたから「なんか見りゃ描けます」って答えた。

「鳥山明描ける?」って聞かれて、当時はまだドラゴンボールとかじゃないのよ、アラレちゃんの時代なんですよ。
ガッちゃんの絵をコースターの裏に描いてあげたら
「採用!!」って言われて「何が!?」みたいな。

それがゲームデザイナーの採用試験だったんです。びっくりだよね。

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実は服部さんはデザイン事務所をやってて、サブのお仕事でデリカテッセンのお惣菜屋とフランス料理店も経営してたの。

まだゲームウォッチとかインベーダーゲームの時代に、これからはゲームが来るっていうんでもともとは一人で起こした事務所だった。
たった4人しかいないその会社に就職することになったんですよ。

 

でも「バーの仕事があるから夕方には帰ります」とか言ってて(笑い) 9-5時のシフトで。

でもね、続けさせてくれなかった。最初の一ヶ月ぐらいで「もう仕事終わんねえからやれ!」みたいな感じになってね。

シェーカーを握るバーテンか急にゲームデザイナーっていうとんでもないことになって。
任天堂のファミコンのゲームデザイナーになりました。

 

しかもそこの会社はバンダイ系列の会社だったから、少年ジャンプのゲームをやってたのね。

一本世に出したら、利益が何億、何十億っていう世界だった。だって当時の少年たちの全員が買うからね。今みたいに幅広い種類のゲームなんてなくて、それしかなかったから。命がけだよね、お父さんお母さんに「買って!!!」って。

当時担当してたのはドラゴンボールZ、まじかるタルるートくん、SDガンダム外伝。

 

G どれぐらいそこにお勤めされたんですか?

H 5年ぐらいかな。その5年でのコンピューターの進化って凄まじくて。
当時信じられないことにマウスがないんですよ。キーボードで絵を描くんだぜ?
あつもりの洋服を作るドットみたいな感じで作っていく。バリ難しい。色とかも数字だしね。

G ドットで絵を描くっているのは、今タトゥーを彫ることに活きてたりしますか?

H 常に手本の絵を見ながら手元に落とし込むっていう作業だから、「見たものを早く明確に 」っていう認識は早くなったかもしれないね。もしかしたらね。

その原画をプログラミングしやすいように形を単純化してデータ化しなきゃいけないから、確かに絵は常に見て作業するみたいな感じだったから。

 

やがてマウスがやってきて、「うわ〜!!すげえぇぇぇ!!」「マウスっていいよね!!」「なにこれ魔法!?」みたいなね。(笑い) みんなですっごい盛り上がった。

その頃、PCエンジンとかセガサターンとかいろんな種類のゲーム機が登場してきたころにはもう私が限界で。

もともとそんなにゲームも好きじゃなければ、コンピューターも好きじゃないんで、こりゃあもうだめだなと思って。私はもうファミリーコンピューターで終わろうと思ったんですよ。

で服部さんに言ったんですね、「もう限界だ」って。服部さんももともとそれほどゲームが好きじゃないんですよ、グラフィックデザイナーなんで。
そしたら、「だよね」みたいな感じで。

「じゃあ、ちょっと俺の方の仕事手伝ってくんない」ということで、半年ぐらいの間デザイン部署に移ったんですよ。

でも人が足りないから元の部署から「最後に一本だけ手伝ってくれ」って頼まれて、それがPCエンジンの「虎への道」っていうゲームなんですけども。これは表紙も描かせてもらいました。

最後だからってパッケージの表紙を任せてもらえたのが嬉しかった。
服部さんかっこいいな、みたいな。

デザイン部署になったけど、半年ぐらいで辞めました。なんか違うなと思って。

 

で、なんと・・・ペパーミントクラブへ戻ります。(笑い)
「やっぱここだよね〜!!」とかって。
しばらくそこにいて。ずっと居たかったんだけどたぶん1年ぐらいかなぁ。

 

壁画との出会い

G またバーに住んでたんですか?

H いや流石にその頃には部屋を借りてましたよ。

バーテンをやってたある日すごい出会いがあって。若林(秀雄)さんという人がやってきて、毎日来てくれて。毎日カウンターで飲んでると仲良くなるじゃない。で世話話もするじゃない。「専門学校出てデザイナーの勉強してて、今はこうしてます」みたいな。

そしたら若林さんが、「じゃあ昼はなにやってんの?」って聞かれて、「昼間は寝てます」って言ったら「バイトしてくんないかなぁ」って。「なんのっすか」って聞いたら「絵描きなんだよ、俺」って。

「今青山画廊で展覧会やってるんだ」とか言うから「えー見に行くよ」って行ったら、めちゃくちゃかっこよくて、青山画廊の作品は立体だったんだけど、本業は壁画家だったんですよ。

で、その壁画家のアルバイトを昼にやることになったんですよね。

G 壁画ってあまり馴染みがないんですけど、どんな感じですか?

H ディズニーシーの家の壁わかる?あんな感じ。トロンプルイユっていうだまし絵だよね。

当時はまだほんのりバブルが残ってたから、アミューズメントパークとかゲームセンターとかすごくでかかったんだよね。そういう大きなところにでっかい絵を描くっていう仕事だった。

G 大きな絵を描くっていうのはその時が初めてだったんですか?

H うん。

G ドットで絵を描いていたところから比べてどうでした?

H あのね、壁画家はガテン系だね。だって一斗缶18リットル持ってビル上がるとか、安全帯とヘルメットつけて鳶のおっちゃんと一緒にラジオ体操やって「今日も一日頑張ろう!」とかやってからみんなで現場に行くみたいな。

G でもそっちのほうが向いてました?

H 向いてた!もう楽しくて。体力があったんで。あれは体力がないとできないのよ。だって外の仕事だと真夏は35℃とか、真冬は氷点下とか。 そんときはほんと死ぬかなって思ったもんね。あと天井画だとずっと上を向いて描くとかね。

桂由美のブライダルサロンとかもいくつか手掛けました。

 

G 壁画を描くときは下書きとかするんですよね?

H 下書きをして、それをクライアントに出して、OKを貰ったら今度それを画用紙サイズに分割するんですよ。それを見ながら、壁のそのエリアに拡大して描くんですよ。

要は比率さえあっていればいい。

G 比率にこだわるところとか、小さいデザインから大きな壁に落とし込んでいく作業のご経験は、今のやってらっしゃることにつながっていますか?

H それはね、ライブペイントにとても向いてたね。

刺青もライブだから、基本的には下書きもあんまりしない。だからもう筋はバンバンジャキジャキ絵で描いていっちゃう。でも背中のやつとかは下絵が必要だよ。

一方で、登っていく龍のような躍動感のあるデザインは、紙を貼ってる暇があったら描いたほうが早いのよ。それは多分壁画家時代で培ったのよ。

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実は私が壁画にパーンとやられたことがあって。

若林さんのバイトから独立して個人で仕事を貰えるようになったころに、大きなイベント会場の壁画を5人のアーティストで共同でやる案件がきた。なんですけど、そこで強烈ないじめにあいまして。

 

当時壁画家って、四美大を出てないといけないのよ。(東京藝術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学、女子美術大学 など)
そういう学校の壁画専攻出身の人が壁画家になってたんだよね。

すごかったのよ。挨拶が「どこの学校?」だったのよ。
「俺藝大」「オレ多摩美」とかって。

自分はその中でも一番年下で、「どこの美大?」って聞かれて「自分は専門学校っす」っていったら
「えっ、、専門なんだ、、、」って。それから一人も話しかけてこない。

一人ぼっちでご飯食べて、一人ぼっちで絵を描いて、一人ぼっちで帰る。

 

その間みんなは「あのブルータスの石膏の絵とかさ、評価どうだったの?」とかずっと美大トークばかりしやがって。

「これをいじめというのか」って、せつねーと思いながら描いてたんだけど、やっぱり辛くて、こんな学歴がないヤツは壁画をやっちゃいけないんだと思うようになった。

当時仕事をもらっていたA&Mっていう会社の社長のまりこさん
「だめだ、まりこさん。私は学歴がないからあそこで描けない。描いちゃいけない立場の人なんだ。無理だ〜」とかいったら、すごい怒られて。

普段は大竹しのぶさんみたいな穏やかな人なんですよ。
それが、「ふざけんな!!!!そんなもの作品で見返せー!!」って言われて。
「はい!!!」とかいって。

でも確かにと思った。仕事に来ているんだから、井戸端会議に参加する必要もないし、私はその作品にベストを尽くせばいいんだもんね。

A&Mっていう会社は画家さんをストックしておいて、「ここの現場に行ってきて」って仕事を振るっていう会社だったんですよ。自分もその中に所属してた。

今気がついてびっくりしたんだけど、私今Lotus Soulで私まりこさんとおんなじことやってるわ!!
(※Lotus Soul=
彫蓮さんの率いるクリエイター集団)

 

作品で見返せって言われたときに本当に活を入れられた。

そっからもうあとの4人が固まって喋っている声とかまったく聞こえなくなって、もう全集中したら、自分の描き上がりがダントツ早かった。

一人クビになったの。そいつはノロノロして、絵を描くときもこんな(角度を熟考して目を細めたり)してやってて、私がその人の分まで早く描いちゃったから。

それが23歳の時の話。

 

異国で迎えた運命の24歳

G タトゥーとの出会いっているのはいつごろだったんですか?

H はい、そこですよね。運命の24歳なんすよ。
オーストラリアをバックパッカーみたいな感じで一周半したんですよ。実はこれ訳があって。

専門学校のときの友達に誕生日が一緒の秋元っていうやつがいたんです。

当時ワーキングホリデーができたばっかの時代で、行き先の国も決まっちゃってるし、年齢も確か24歳までとかだったんだよね。
で、ラストチャンスだ!!みたいな感じで、あきもっちゃんはそれで行ったんですよ。

まだネットがないから文通をしてて、「誕生日で最後だし、車を借りて一周しないか」って話になったんです。

あきもっちゃんはケアンズでファームステイしてて、牧場のファミリーがお祝いしてくれるからおいでよって。同じ誕生日だし。

「行く行く!わーい!」ってなるじゃん。でチケット買って。当時は半年前にチケットを買うと安かったんだよね。

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オーストラリアに行って、「わーい!楽しいな〜!」ってはしゃいで「次はドライブだね」って言ったら秋元が、なんと文通している間に彼氏ができてたの!オージーの。

「ごめん、最後の旅は彼と二人で行きたい」ということになり。

「まじで!?まじで!?置いてくの!?」とか言っても「ゴメン。。」みたいな。
もうラブラブになってて「一緒に乗せて」って頼んでも「ごめん」って。

ケアンズでさようなら〜! 「えー!!」みたいな。(大笑い)

 

「いーよ!じゃあ!ケアンズに居てやる」ってなって。だってまだ時間もあるし。

最初は2週間の予定だった。誕生日会やって、一周して帰ろうぜみたいな。
その予定上でも一周は回りきれなかったんだよね、でもやろうぜみたいな感じでいた。

「もう2週間牧場に居てやる」と思ってたら、私なんと落馬しまして。

落ちたところに蟻塚があったんですよ。蟻塚って石のように固くて尖ってるのよ、あれ。

あそこにケツをバキーンと強打した。

ケアンズってすげえ田舎で、リンダが病院に連れて行ってくれたんだけど、打撲じゃねってことで。
こんなに高熱が出て、血尿が出てるのに。でもバカだから「打撲なんだ〜」みたいな感じだった。

G 強すぎる!!

H リンダも打撲だねとか言ってたし。

ここにいても治らないし、暇だし、都会行こって思って。時間もあるしね。

グレイハウンドのバスに乗って、シドニーに行った。ユースホステルに泊まると地球の歩き方とかバサって置いてあるじゃない。
ふむふむって見てたら、日本人の医者を見つけたのよ!

行こー!!!と思って行ったら「折れてます」って診断されて。
しかももう曲がってくっつき始めてるから、治せないって言われて。

コルセットだけつけられて「以上。」みたいな。自然にくっつくからってってことで。

「それだけっすか!?」って思った。だから未だに体育座りとか苦手。

 

チェッて思いながら松葉杖で歩いてたらタトゥーショップ見っけちゃったの。
「お?タトゥー?いいねぇ。景気づけに入れちゃおっかな」と。

で、そこでワンポイント入れたんだよね。バカみたいなドラゴンを肩に。

 

G 柄はサンプルの中とかから選んだんですか?

H 当時って、サンプルというよりはフラッシュなんですよ。壁中に貼ってあるの。
ほんとにいっぱいのワンポイントの絵が貼ってあって、もう値段も書いてある。
じゃあこれにしよ、「これ買う」みたいな感じ。

G ファーストタトゥーですね

H やっちまった。

G それまでにタトゥーを入れようと思ったことはあったんですか?

H ない。

G 完全なる思いつきというか、目に入ったから?

H 景気つけていこうみたいな。

そんで入れてみたら、「うわ〜、いいじゃん!かっけー!」って舞い上がって楽しくなって。

そっから2週間ぐらい毎日入り浸ってて、店の人たちと遊ぶぐらい仲良くなってた。終いにはちょこちょこ泊まるようになってた。(笑い)

G すごいですよね。入り浸れるのもコミュ力の賜物だし、泊まれるようになるっていうのはもうコミュ力の極み。

H しかもそんなに英語喋れてないし。たまたまオーナーのボブに息子さんがいらっしゃって、その彼女が日本語が喋れる確かクオーターだったのかな。だからその子が通訳に入ってくれた。楽しかったよね。

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G その時のタトゥーは一つだけですか?

H いや、2週間いる間にちょこちょこ入れた。で、楽しくなりすぎて、チケット捨てちゃったの。
パスポートの日にちがありゃいいんでしょう?みたいなノリで。
なんだ三ヶ月ぐらいか。ギリギリまでいようぜって。

G 思い切りの良さが清々しいです。

H で、ほんとに一周半した。一人で。

一人旅してると道中いろんな人と関わってくるから、途中何人かでバスツアーで一緒になって盛り上がったりとか、楽しかったね。

行くとこ行くとこでタトゥー入れまくっちゃって。

G オーストラリアタトゥースタンプラリーみたいな。

H うちの女子のお客さんと仲良くなってくると、「先生、一緒に温泉旅行行きましょうよ〜」とか言ってくるけど絶対行かないね。見たら絶対腹抱えて笑うもん。

G じゃあ誰にも見せてないんですか?

H 見せません。反面教師としてなら見せるけど。こうなっちゃだめだよって。

でももう舞い上がってるしさ、タトゥー入れたときの達成感ってすごいじゃん。
目に見える形で現れるから。嬉しくなっちゃって、金バンバン使って、バンバン入れちゃって。

G 結構高いですもんね。

H だからオレオレ詐欺した。

G え゛。誰にかけたんですか。

H 服部さんに。当時ネットないから国際電話して。泣きながら、嘘なんだけどね、いや怪我は本当にしたから
「怪我して、腰の骨折れて、血尿も出て、でも海外保険入ってなかったんすよ服部さん(シクシク声)」
「ここにお金振り込んでください」とかって友達の銀行口座借りて。

まあ帰りのチケット代だけでよかったんだけど、「いくらだ!?」とか言われて「120万円ぐらい、、、」とかって。高いよね、あははは。(笑い)

当時の金額だからもっと高いよね。今で言ったら200万円ぐらいかな。

※1990年当時 1豪ドル=113円。 2021年 1豪ドル=82円 

「わかった!振り込む!」って言ってくれて。
「やったー!」とかいってまた豪遊してるの。その金で(笑い) 豪華なツアーに参加したりとかさ。

 

そんなこんなで、身体中にオージータトゥーを入れまくりまして、しくじり先生ですねぇ。

最後にシドニーで帰りの飛行機のチケットも買ったし、よーしクラブで酒飲んで明日も早いから寝よって思って思ったら、ナンパされたんすよ、おっさんに。

「おお!!僕と同じ刺青が入ってる!!」ってここ(肩)の。オソロだったんだよ。

だってフラッシュだから被るんだよ。

「うわぁ、こんな変なおっさんとおんなじセンスしてるんだ〜!!」ってショックを受けた。

イヤだなぁ、これはイヤだと思って。

 

帰りの飛行機の中でも、「あ〜あ最後にちょっと嫌な思いをしちゃったな」と思い返してた。

で、その瞬間に「待てよ」と思って。
「あたし絵が描けたじゃん!自分で絵描いて、見せればよかったんじゃんね!?」と思って。

飛行機の中で「しまったぁぁぁぁぁ」って頭を抱えた。(笑い)
1万メートルとかの上空でね。

Gマンガの1シーンのように目に浮かびます。(笑い)

H 彫師になろうと思ったの、そのときに。こんな思いをさせちゃだめだ!って。
あと、残りのところは自分で無料で彫れるなと思って。(笑い)

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G なんか全部つながってますね。ドラマティック。

H そうだよ、あきもっちゃんが裏切らなければ私はまた帰ってきて壁画家だったんだよねぇ。

G そして服部さんにお金を借りて、豪遊して、一ヶ月二ヶ月経ての帰りの飛行機だからたどり着いた境地ですよね。

H 間違いない、間違いない。 も〜!!一回(肌を)脱ぎたい、みたいな感じだった。

 

また上手くねえんだ、当時の彫師。旅してるからさ、お金もそんなにないわけじゃん。まあ遊んでたけど。でケチるじゃん、そうすると【安かろうは下手かろう】なんすよ刺青も。

だから下手な彫師にバンバンバンバン彫らせてさ。でもあんときはバカみたいに楽しくて浮き上がってたから。バックパッカーやってるのかっこいい!って。

オーストラリアで見つけた夢・家族からの電話

H 日本に戻ってきて。壁画家っていったって自分が親方だしいつ辞めてもよかったんだけど、まりこさんだけには言ったのね。

「実は私彫師になるよ!」みたいなことは帰ってきてからハイテンションで言ってて、
「はいはい」みたいに言われてたんだけど。

ここの24歳が一番の転換期っていうのはもう一つあって、お母さんが病気になったんですよ。
オーストラリアから帰ってきてからの出来事だったんだけど。

 

こっちは彫師になると決めた瞬間からウキウキしてたのよ。ど
うやってやってこうかなとか、下絵描いちゃおうかなみたいなとか考えてて。

ある日兄貴から電話がかかってきた。私、家出してからずっと音信不通だったんですよ。

だけどほらお父ちゃんに捜索願とか出されるの嫌だから、兄貴には「この学校に行ってて、ちゃんと働いてるから」っていうのは連絡してたんだよ。

「母ちゃんが大変なことになっちゃってるから、一回病院来て」って言われて行ったら、脳のがんだったんですよ。まず助かんないかな、みたいな状態だった。

 

唯一助かる方法は、今だったらガンマナイフっていう保険が効く治療法があるんだけど、当時は陽子線治療っていう最新の、機械もいかついやつしかなくて、それならばピンポイントで放射線を当てて小さくするっていう方法があるということだった。
その費用が1200万かかるって言われて。まだ実験段階ぐらいだったから保険も効かなかった。

 

ただ私は壁画家として稼げてたんですよ。1200万は頑張れば全然稼げる金額だった。
家族会議で「じゃあ私はお金は出すけれども、病院のこととか母ちゃんのケアとかは父ちゃんとあんちゃんで頑張ってね。お金はなんとかするよ」みたいな話し合いをしました。

それで、封印したんです。6年間。彫師になりたかったけど。

なりたくてなりたくてしょうがなかったけど、今は母親を助けるために壁画家を頑張ろうって。

無事に治ったら本当に彫師になるぞ、と。

 

まりこさんにも伝えたんですよ。「また壁画家として頑張ります」って。
「ただ母親が元気になったら彫師になりたいんで辞めさせてください」って。そしたら「それまで頑張れ」って応援してくれた。

結構長引いて6年はかかったかな。でも本当に元気になってくれた。

G よかった!

H 本当に本当に本当にもう。

でもそのあとすぐ乳がんになったり、肝臓にがんできたけど、それでも脳よりは全然。

 

だからデビューが遅いんですよ。30歳過ぎてから。
みんなは19歳から彫師やってるんだ〜とかいう人もいて、デビューが早いんですよ。

でも私はスタートダッシュが、みんなが遠くに行ったなってときから走り出すみたいなタイミングだった。 遅かったね〜だから本当に。

彫師としてのスタートライン

G 彫師になろうと決めたのは帰りの飛行機だったわけじゃないですか。そしてそもそもタトゥーとの出会いもオーストラリアに行ってからで。彫師とかタトゥーへの思いっていうのもそこで突発的に着火したもので、それを6年間も封印して、その間に諦めたり別の選択肢を選ぼうとしたことはなかったですか?

H 初めて自分で決めたことだったから。

だってバーテンも友だちにやろうよって誘われて履歴書もなく入れたのよ。その後だってゲームデザインもコースターにガッちゃん描いて入ったじゃん?

壁画も若林さんからバイトから入ってみたいな感じでしょ。流されてたんですよ、ずっと。

でも生まれて初めて自分の感情でやろうと思ったの、彫師は。
その気持は揺らがないよね。それって決めたんだから。

どんなにそれが今できなくても、いつかは願えば治るわけだし、いい治療をしてるわけだから。全然、絶対やれると思ってた。

G 30歳から彫師を始めたとき、どこかに弟子入りとかしたんですか?

H ううん、独学で。大変だった。

当時渋谷にパラドクスっていうマシンを売っていたところがあったんですよ。ボディピアスも日本で一番最初のお店で。

マシン売ってて、「買う!!」みたいになって「買った!!これか!!」「わー!!」で買ったはいいものの「どうやんだっけ」みたいな。(笑い)

でもオーストラリアで見てたし、やり方もぼんやり覚えてるし、みたいな。

今思えば付属品がすごく足りなかったんですよ。だってマシンだけだったから。チューブもなければニードルもないし。

そのパラドックスがちっちゃいタトゥーショップを経営し始めたのよ。

そこで彫師の卵たちが彫ってて、そこに居候させてもらって、ちょこちょこ顔だして「どうやんのどうやんの」「なになになに」って。

そこで道具をいっぱい買って、家に帰ってきて足に彫ったりしてみて。やってみたらまあまあいけんじゃんって。それで客取ろと思って、1週間で客を取るという(笑い)

 

彫り始めた当時は杉並区に住んでたんだ。高井戸のあたり。
猫を飼ってたんだけどバレて追い出されまして、「いやぁ〜!!」みたいな。

そのとき3人で住んでて、1人はあの裏切った秋元が金がなくて一緒に住んでた。もうひとりはみよちゃんっていうのが彼氏にフラレて行くとこないからってけっきょく3人で住んでて、猫が原因で3人放り出されちゃった。

まだそのときはちょこちょこ壁画もやってたんだよね。

「じゃあおっきな家に住もー!」っていうことにしたんだけど、家賃が高くてなかなかないんだよ。で流れて流れてなんと蓮田まで行ってしまって。

オーストラリア人のブライアンっていうのと、武田もいれて、全部で5人で住んでた。

そこで本格的に彫師を始めた。

G ちなみにオーストラリアで裏切った秋元さんとは、喧嘩にはならなかったんですか?

H 特には。過ぎたことだし。

初代彫蓮の考える刺青とは

得意な絵柄やスタイルはありますか?

H やれればなんでも。やり方も特にこだわりはない。

G 和彫の霞とかも独学なんですか?

H 独学です。最初は全然わからなかったから、まずグレーを作って、ダークグレーにして、ブラックにしてってやり方をしていたんだけど、なんか違うなと思った。

ある日お客さんに「それちげーよ。墨磨って、水足して薄くするんだよ」って言われて「そーなんだ!!」と気がついて。

ほぼほぼね、お客さんから教わった。みんな情報知らないから、「タトゥーバースっていう本に情報があるよ」とか「実話ドキュメント読むと和彫いっぱい出てくるよ」みたいに情報交換してた。
すでにタトゥーの入っている人が「ちげーよそれ」って教えてくれたりとか。

 

「刺青」を彫るとはどのようなことか、彫蓮さんのお考えをおしえてください。

G みんな様々な理由でタトゥーをいれるじゃないですか。自分を大きく見せたいという人もいれば、傷あとをカバーアップしたかったりとか。
私の場合でいうと、20年近く自分で髪の毛を抜いていているんですが抜毛ってある意味自傷行為でもあり、続けることで自分に対する認識が歪んでしまったという自覚があります。
抜いているところを見られると家族にもすごく指摘されるから、誰からも隠れてやってたら、自分へのイメージもどんどん歪んで、自分のことを美しいとは到底思えないようになって。
そう思っていたところへ伝統的なトライバルタトゥと出会って、アイデンティティに直結するということに感銘を受けて、そこからタトゥーを入れることを考え始めたんですよね。抽象的な言い方をすると、「魂の形を変えたい」ぐらいの思いで。

H 良いコンセプトです。そういうお客さんばっかりだったら良い。逆に。

G まあ本当に人それぞれですもんね。 彫蓮さんにとってのタトゥーを彫るという行為はどういう意味だと捉えてお仕事をされていますか?

H タトゥーとその人が一生の付き合いになるね〜って感じ。

座右の銘が一蓮托生なんで、ここに彫りに来たんだったら死ぬまで面倒見ましょうかね〜みたいな体でいてる。
それは例えば彫りに通わなくなったり、他のところで彫って帰ってきてもなにも言わない。

G 「一蓮托生」はタトゥーとその人のつながりでもあるし、彫蓮さんとお客さんとの繋がりも意味するんですね。

H 人としての繋がりがでかいかもしれない。

G 彫蓮さんのお客さんには天涯孤独な方も多いと聞きました。彫蓮さんのところに来る方はそういう深いレベルでのつながりを求めていらっしゃるのかなと思って。

H 全然いる。ほんとうに。

G それってタトゥーを彫る側・彫られる側の唯一無二なつながりですよね。

H そうそう。同じっすよ、抜毛と。ちょっと自傷行為に近い部分がある。痛くても来ちゃう、みたいな。
刺青を彫ることって、針を通してちょっと人の気をもらうんでしょうね。

G 魂をちょっと分けてもらう、みたいなそんな感じがします。

H 不思議なんですよ。お客さんだけど、友だちでもないんだけどでもなんかこう密接じゃないですか。

恋人と友達と家族が上手く混ざっているような感じ。だって信用がなきゃ素っ裸になってあんなへんてこりんなところとか見せらんないじゃん、普通だったら。

晒さないといけないし、信用してもらわないといけないし。

そういう風に人となりを目の当たりにして仕事してるから、これまでに彫ったお客さんが死なれちゃうと本当に苦しくて苦しくて。

もうこの歳になってくると、若い子とか娘とか息子とかみたいなんですよ。それがポクっとしなれると「なんで!!」と。

年上の人だと私にとっては姉さんとか兄さんみたいな人が孤独死とかなると「一体どうしてっ!!」てショックを受ける。 それが辛くて悲しくて。

今年は本当に辛い年だった。

了禅さんのおうちによく遊びに行くんですけど、一緒に飲んでるときにポツって言ったんですよ私。
「坊さんになろうかな」って。

そしたら了禅先生が「それを言うのを待ってた」って。
「そう言ってくると思った。だから俺名前を決めてた」って。

G なんというお名前なんですか?

H 蓮照(れんしょ)っという仏師名です。

G 了禅先生とはどうやって知り合ったんですか?

H 了禅先生は、私のすげー女三選に入っている友人の康代さんが知り合いで3人で遊ぶようになってそっから。だから長いんですよ、友だちになって。10年ぐらい。

G そんなお名前まで考えてくれていたなんて、普段のお話から親和性を感じ取られていたんでしょうね。

 

刺青とペイント それぞれの役割

G 彫師さんは職人という印象なので、フェイクタトゥーを嫌厭する人も多いのかなと思っているのですが、彫蓮さんはその垣根を意識されていないのだなと思いました。
一生モノの刺青に対して、時間が経てば消えるペイント。 彫蓮さんから見て、この2つは共通するものでしょうか、それともまったく別物でしょうか。

H ペイントは基本的には営利目的ではまったく考えていないです。もちろん鶴瓶さんに描いたりギャラをもらうこともあるけれど、本当は刺青を分かってもらうためにやるんですよ。

実際のタトゥーとペイントは違うものだけれども、入れた喜び、ボディに変化があるということはすごく面白いことなんですよ。

自分の身体が変化する喜びを知ることで、タトゥーへの垣根がぐっと下がるんですよね。

鶴瓶さんが面白くて、「なんや強なった気ぃするなぁ。サウナ行こか」って。「取れちゃいますっ」とか言って。
そう喜んでくれると刺青への理解が深まる。そのためにやってるんです。

※映画『夢売るふたり』(2012)で笑福亭鶴瓶のタトゥーデザインを手掛けた。

G 刺青をすることでその人にどうなってもらいたいですか。

H 心からやりとげてほしい。

入れたら最後やりきってほしい。何年かかっても仕上げるんだって。

そしたら痛くてもお金がかかっても、俺こんなことできちゃったんだ、乗り越えたんだと思えるようになる。タトゥーをすることで今後の人生をそんな人になってほしい。

お客さんの中には10年経って帰ってくる人もいる。いくら時間が過ぎても私は待っているし。健康にも気をつけてほしいね。


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