アジア映画 巡礼への旅(他人事ではないもう一つの現実)
こんにちは!Genaです
このブログはアジア映画についてのブログなわけですが、そもそもなぜGenaはアジア映画にこんなに取り憑かれているのか。
まだブログをはじめて日が浅いので、まずはそのへんから書いてみようかな
私だけじゃなく、アジア映画のファンって実はたくさん存在してる。
なんで私たちはアジアの映画を好んで観るんだろう。その理由を主観的に、客観的にも考察してみようと思う。
アジア映画にどっぷりな方も、片足を突っ込まれている方も、アンチな方もぜひ!
まずアジア映画と言っても範囲はめちゃくちゃ広いわけですが、ある程度数をみるとその中からぼんやりと浮かび上がってくるカラー、文化的な共通点がある。
抽象的だけど、確実に存在するそれらの特色を持つ映画を「アジア映画」として、それを軸に話を進めようと思う。
Genaが個人的に感じているアジア映画の共通点とは、身近な日常感、濃い家族関係、恥の概念などが思い浮かぶ。
身近な日常感
例えば、どこかで見たようなぜんぜんおしゃれじゃない細い路地裏を歩きながら煙草を吸ったり、制服を着てチャリの二人乗りで下校したり。
会話の少ない家族の食事のシーンとかを観るたびに「あるある、この空気まるでうちだわ!」と思ったり。
相手を大事に思っていることをハグで表現しない感じとか、なんだかとても良くわかる感じがする。
濃い家族関係
というと、タイを舞台にした映画『バンコクナイツ』や、『息もできない』が思い浮かぶ。
(『息もできない』に関しては別のページで熱く語ってるので、ここを読んでね)
『バンコクナイツ』ではまだ若い女性のラックが、一族の稼ぎ頭として日本人相手の風俗店で上り詰めていく。
家族の中で稼ぎがあるのはほぼ彼女だけで、みんな彼女が支援してくれることを当然と思っている。
そして彼女もそれを疑問には思わず、大事な家族のために働きつづける。
『息もできない』では、連鎖する激しい暴力の渦中にありながらも、それでも愛する家族から離れない二人を描いている。
一筋縄ではいかない家族関係が、2,3時間の映画を通して鮮明に、時に痛みをさえ伝えてくる。
恥の概念
これを語る上で外せないのが『オアシス』(韓国・2002年)だと思う。
脳性麻痺を患う女性コンジュと、被せられた罪での服役からようやく出所したばかりの男ジョンドゥ。
(彼も直接的な説明はないですが、軽度の障害があるように描かれているのが見逃せない。)
この二人の恋愛を描いた作品なのだけど、彼らはいわば家族や世間から爪弾きにされている存在でもある。
見て見ぬふりをされてきた人たち。
「恥ずべきもの・やっかいなもの」として家族や世間からないものとして扱われてきた全く「美しくない」2人を撮ったこの映画の強度、美しさはどこから来るのだろう。
この映画が撮られたことには大きな意味があると思う。
この手の恥の意識で思い出されるのは、2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件。
事件があまりに猟奇的で世間に衝撃を与えたのは記憶に新しい。
それと同時に被害者の入居者の名前が家族の意向で非公開にされていたことにも私は違和感と衝撃を受けた。
このように身に覚えのある感覚がいたるところに散りばめられていることで、映画はいつのまにか娯楽の対象とではなく、なにかしら自分につながる作品になる。
人間の強さ
気がついたら不思議なことに、欧米の作品より自分ごととして感じるようになっていた。
この欧米作品群との比較の点で、アジア映画研究の第一人者四方田犬彦さんが興味深いことをおっしゃっていて、
かつて大島渚は、なぜ人々は自国の映画より外国の映画を好んでみるのかという質問をされた。それに対する彼のシンプルな回答は
「自分より自由な人間が生きている姿を観たいからだ」というものだった。
四方田さんは、このとき大島が想定していたのは、当然ハリウッド映画だった、と述べている。
(この感覚はとてもよく分かる。日本では考えられないような気楽さ、大胆さは観て楽しめるけど、観客の日常とは切り離されている。ハリウッド映画は娯楽、憧れの対象なんだと思う。)
昔の日本の生活と比べると、現代はなかなか悪くないように見える。
商品が揃っているし、格段にお金持ちでなくても手に取りやすい価格で買うことも可能だ。
きっと私たちは前の時代よりも不自由のない生活を送っている。
一方のアジアは、政治情勢や、経済的な発展度合いなどその国の時代背景からも、日本よりはるかに困難な状況で生きていることが多い。
その生活の中から生まれてきた映画たち。
人々は一体なにを求めて人アジアの映画を観るんだろう。
四方田さんの答えはシンプルだった。
それは「自分より強い人間を見たいから。」というもの。
どんなジャンルの作品であれ、
そこに自分たちよりも遥かに強く忍耐と寛容に満ちた人間の行き方が描かれているからにほかならない。強い悲嘆を知るものは、同時に強い歓喜を体験できる者でもある。
困難な社会の中で自分たちとはいったい何者であるかという問いを間近に突きつけられ、それに真剣に答えようとする人間が描かれるとき、そのフィルムは思いがけない強度を獲得するものだ。よく探求するものはより大きな自由に到達する。より深い心の慰めを体験する。
まさしく。2000%同意します、四方田さん!!
身近な文化・自分たちとはそう遠くない土地にいながら、私たちの日常の範囲にはいないような強い人間、強い物語を観たい。
そういう刺激に出会ったとき、ある種の本能が呼び覚まされる。
何不自由ない生活を送っている私たちにまさに必要な刺激だと思う。
今回引用させていただいた、四方田さんを始め、アジア映画の最前線でご活躍する方々が書かれた著書がこちら。
アジア映画について、中国・韓国などの東アジアから、パキスタンなどの南アジアまで幅広くカバーされている読み応えのある本。
アジアの映画シーン、その中から見る日本も面白い。アジア映画のジャングルに分け入っていくガイドにぜひ。