日常で感じたこと

千と千尋の神隠しについてとりとめなく思うこと

先日、神田明神で開催された『鈴木敏夫とジブリ展』に行ってきた。
嬉しい訳があってなんと2度も!

通路のように狭い会場には、鈴木敏夫がこれまで宣伝、プロデュースを手がけた往年のスタジオジブリの作品が並ぶ。

 

その中でも『千と千尋の神隠し』関連の展示が多かったように思う。

 

たぶんそれは、この映画が歴代最高の興行収入を記録したこともあるだろうけれど、

もうひとつはキャラクターやモチーフなどが「映える」からじゃないかとも思った。

(開催場所も神社だしね)

大きな湯婆婆、銭婆婆の人形や、湯屋の模型など、何千人が撮っているとは分かってても、

思わず写真を撮りたくなっちゃう。

 

私は『千と千尋の神隠し』がとても好き。
物語として、秀でた美しさを感じるから。

ちなみに、この作品には形だけの原作がある。

『霧の向こうの不思議な町』という。

© 講談社

写真は昔の装丁。

あの赤い水玉模様の傘と、タイトルのフォントが好きだった。懐かしい。

この物語のあらすじ:
主人公の小学生リナは、道に迷って知らない町へたどり着く。そこでピコットばあさんなる女主人の大きな屋敷で下宿させてもらうことになるが、ここには鉄の掟があった。「働かざること食うべからず」
リナはしぶしぶ、商店街の店でかわるがわる働かせてもらうことに。。。

 

小学生のときに読んで、夢中になった。

確かお芝居にもなっていて、親に頼み込んで六本木あたりまで連れて行ってもらった記憶がある。

 

宮崎駿は、スタッフの子供から推薦されてこの本を読んだ。

そして面白さがまったく理解できなかったことが悔しかったと昔どこかで読んだ記憶がある。

 

やがて彼はこの話を換骨奪胎して、物語の広がりを持たせて肉付けをし、
アジア風な味付けをして、最高傑作のアニメーションをつくった。

そうして彼が作り上げたこの物語の美しさとは、
作品としての映像が始まる前後にも、時が流れていることだと思う。

 

わたしたちはそのことを画面の節々から予感させられる。

 

例えば、湯婆婆のセリフ

「働きたいものには仕事をやるなんて、なんて契約をしちまったんだろうね」
春闘か何かでもあったのだろうか。

湯屋で働く人間はどこから来たのか。

ナメクジ男たちは本当に人間を食べるのだろうか。

イモリの黒焼きってそんなに美味しいの?
(※これは調べたら答えがあった。強力な精力剤らしい。)

なぜ、湯屋と町が分断されているのか。

釜爺はなぜ電車の切符なんてもっているのか。

 

ハクと湯婆婆の契約、千尋とハクの出会いなどは作品中に解き明かされるが、
そのままにされているものも多い。

説明は少なく、設定は入り組んでいる。

複雑な構造を持った世界観だ。

 

具体的な正解はなにもないから、私たちはただ想像するしかない。

背後には歴史が、視線のさきには未来がある。

 

初めてみたときも、大人になってからも、何度だってこんなにときめくのはどうしてなんだろう。

この気持ちを、どうしたらいいんだろう。

 

自分の気持ちなのに、持て余してしまうような感じ。
これは私だけじゃなかったみたい。

 

ある日YouTubeで、素晴らしいものを見つけた。

平原綾香が、作中に使われた2曲に、歌詞をつけて歌っていた。

それがまあどんぴしゃで。まるで大人になった千尋が書いているかのような、切なさがこもっている。

 

 

 

【平原綾香 千と千尋の神隠し】で検索してみてほしい。 

 

私も、想像してみる。

いつか、二十歳になった千尋は再び出会う。

雑踏のど真ん中で。
静かな美術館の館内で。
ふと視線をやったその先にいる子どもたちの集団の中に。

きっといつか。

そんなとき、きっと彼女の心の中でピンク色の髪留めがまたきらり、と輝くのだと思う。

千尋はありふれた普通の女の子になっているのかもしれないし、

もしかすると「千尋って意外と芯があるよね」って言われるような成長をしているのかもしれない。

少女だったころの思い出を胸の中に。