先日、今更ながら香港映画の『十年』を観た。
コロナが爆発的に流行るまで続いていた逃亡犯条例改正案に反対するデモ(2019年〜)
このデモのときに、SNSで本作『十年』が話題になっていたことは知っていた。
タイミングは逃してしまったが、ようやく観れた。
2015年に製作され、仮想の2025 年を舞台にした物語。
2020年現在にこれを観るということは、途中の答え合わせをしているような、最悪の未来を避けてまだ方向転換が可能であると思えるような、そんな風に思えた。
この映画は5つの短編作品から構成されている。
初めは事情がわからないこともあり、やや退屈だったが、一話一話が断片となって、それが集まって、浮かび上がる2025年の香港の様子に戦慄する。
この2025年というのは、香港が自治を失い、かなり中国共産党寄りになりつつある世界だ。
第一話 『エキストラ』
労働節の集会の準備が進んでいる中、下っ端のチンピラ、ピーターとヘアリーに暗殺の命令がくだされる。
その背後にいるのは、「国家安全法」という”テロ対策”の成立を推し進めようとする政治家たち。どうやら中央政府にお膳立てするのが目的の一つのよう。
チンピラ(うちピーターはインド系の外国人)に議員を弾かせることで、テロ対策が必要だということを印象付けようとした作戦だった。
本筋とはやや外れるけれど、この香港では南アジア系(インド・パキスタン)の人による運動を警察が制圧したという事件があったようで、ピーターは二重の被害者であったのかもしれないと示唆している。
第二話 『冬の蝉』
「逃げ落ちた反抗勢力はエディーの家を再建し、街に散らかる様々なものを標本にした。」
という文章から始まる。エディーの家というのは数年前にブルドーザーで壊されたらしい。
どうってことないような、日常生活の破片(水道料金の請求書だったり、割れた皿だったり)を丁寧に拾い、標本化していく二人の男女。
どうやら彼らは、古い香港を保存しようとしているようだ。
ある日、とうとう男は自分も標本にしてくれと言い出す。
一種のハンガーストライキのような気がした。
適応して街や政治とともに変わっていくのではなく、身体を張って自分の意思を示すことに。
余談だけれど、ここに登場する「エディー」とは、本土派の香港立法会議員で環境活動家のエディー・チュー(朱凱迪)さんのことではないかと思った。
強制立ち退きの問題にも取り組んでいるみたい。
※ 「本土派」とは、香港こそ自らの祖国であり、共産党の支配する大陸は別なものだと考え、中国共産党の政策に批判的な立場をとり、香港がより多い自治権を持つべきだと主張する新しい政治勢力であり、2014年の民主化を求める大規模デモ「雨傘運動」の失敗で、反中・反政府を掲げる民主派の手ぬるい対応に失望した若年層が中核を占める。(EPOCHTIMES)
第三話 『方言』
タクシー運転手として生計を立てていた男が、普通話(北京語)の普及政策によって危機を迎える。
乗ってくる客は一方的に北京語を話すし、妻や小学生の息子も家でも北京語に切り替えている。
さらには北京語の試験に受からなければ、営業可能な範囲が大幅に縮小される。
北京語が話せる同業者には引き離される一方だ。
ある日、香港人の女性が乗車する。後部座席で電話会議を始めた彼女は、北京語に不自由しており、その場でクビが言い渡されてしまった。
「明日は我が身」ということを突きつけられる。
具体的な「言語政策」が出てきたあたりで、かなり時代が進んでいることが表現されている。
前二話よりもかなり日常生活に支障をきたすような政策を持ち出すことで、ぐっと庶民に身近な問題になっているし、ここまで来ると危機感も強くなる。
第四話 『焼身自殺者』
イギリス領事館前で焼身自殺をした人物がいた。
これが一体誰だったのか、手がかりはない。
この話は、かなり現在よりかなり進んだ現実を見せている。
まず
・2020年にも大きな独立運動がおき、23条と呼ばれるものが運用され、むしろ規制が強まる結果になったこと
・オウヨン・キンファンという若い活動家は23条によって投獄され、ハンガーストライキを行って21歳で死亡。 (彼は、イギリスは、中英共同声明を侵害する中国を国際司法裁判所に提訴するべきだと主張し、過激派とみなされた。)
こういった経緯が用意されている。
最後にはこの焼身自殺者が誰であるかわかり、キンファンとのつながりや行動の理由もある程度解き明かされる。
この話が目新しいと思ったのは、旧宗主国のイギリスに多く言及している点。
実際今起こっている運動の中でもこういう動きがあるのだろうか。
イギリスが介入するのは難しそうな気がするけど、植民地化した責任はどの宗主国も背負ってほしい。
2025年、香港に高度な自治が認められた50年間が終わるまで残り22年。
そこには老いも若きも、戦うたくさんの人々がいる。
第五話 『地元産の卵』
香港で最後の養鶏場が、政府の方針に反しているということで閉鎖される。ずっとそこから卵を仕入れていたサムは、ほかの仕入先を探すことに。
ある日、息子も所属する少年団の少年が訪れ、「地元産」という言葉は好ましくない、規則違反の言葉のリストに載っているから報告すると告げる。
少年はまだ小学生ぐらいで、規制やこの言葉狩りが何を意味するのか理解するのは幼い。
でも着ている少年団の制服が一瞬軍服に見えるぐらいには、ちゃんと任務を遂行していた。
ある日、同じく目をつけられていた書店に、少年団の子どもたちが卵を投げつけているところをサムは発見する。
書店の店主は先手を打ち、規制対象の本は別の場所で販売していた。
もう慣れたから大丈夫だという若店主にサムは「慣れたらいけない。我々の世代が慣れてしまったからこうなったんだ」と言う。
近年の愛国教育によって「中国人」を強調する動きが強まっているなかで、香港の独自性をアピールする「本土」や「本地」などの言葉がいつか規制されるかもしれない。( WEDGE infinity )
そんな恐怖が描かれている。そしてそれに対して世代を超えてつながる香港人の意識も。
話が進むごとに問題が身近になっていく。
政策が変わる、政権が変わるということがどのように日常に影響を及ぼすのかということをビジュアルで見せてくれる。
5つのどの未来が来ても嬉しいことはないんじゃないか。
中国の国営メディアはこの作品を「思考のウイルス」と酷評したとか。
それでもこの映画は香港を中心に思わぬ広がりをみせた。
初めはたった一館だけだった上映館が、香港全土に広がり、最終的な興行収入は600万香港ドル(約8800万円)で、同時期公開のスターウォーズを超えたとされている。
5人の若い監督が、ある種の未来像を見せて、観客に呼びかける。
この手法がとても民主的だと感じた。