抜毛症

【私の抜毛症記録8】社会人一年目の地獄

意気揚々と帰国した私を待っていたのは、閉塞的な日本経済の就活戦線真っ只中だった。

競争が激しいのはいいとしても、みんなが「同じ見た目とふるまい」を求められることに、カルチャーショックを受けた。

NYとは真逆もいいところ。個性をむき出しにした私は、ものすごい勢いで落とされた。
(個性や自主性のある人を募集!と大々的に謳っている企業にまでも。)

で、就活をやめることにした。

 

一旦、「正社員として長期間雇われること」という概念を脇において、自分が本当に興味があってこの先やっていきたいと思っている業界に、バイトや無給でいいから働き口を探すことにした。

割愛するけど、バイトとして雇われたある会社でそのまま新卒として採用されることになった。

実は、新卒採用を提案されたとき、大きな迷いがあった。
給与や待遇、その先のキャリアパスなどがあまりに見えなくて。

でも私には、もう一度就活戦線に戻って戦う気力がなかった。エネルギー切れ。

だからぎりぎりまで決断を引き伸ばした挙げ句、決めきれずバイト先で正式に雇われることになった。

惰性で選んだ就職先だ。

 

そういうわけで、どうにかこうにか無事、社会人デビュー。

社会人生活は、大学生活よりだいぶ楽だった。

大学のときは授業に課題に長距離の通学、掛け持ちのアルバイトで忙しかった。
何が本業なのかわからなくなるほど。

ソレに比べて社会人は会社にだけ行っていればいい。人間関係も限定的だし。

 

と思っていたら。

私は社会人一年目で、地獄のパワハラに合うことになる。人生で一番辛い期間だった。

採用された部署は、私と直属の上司しかおらず、常に1対1だった。
バイトの時は優しかったその人は、「身内」になった瞬間、化けの皮を剥いだ。

後にも先にも、自分の人を見る目がこれほど信じられなかったことはない。

 

無茶な仕事を振られ、こなし切れないと凄まじい剣幕で詰められ、怒鳴られ。
東大卒のその人は、理詰めのモラハラの塊だった。

新人には抱えきれないタスクと責任を振られたときに、私には無理ですというと、「好きでやっているんだよね?」と私の最初ころの熱意を人質とられた。

今なら分かる。あれがいわゆるやりがいの搾取だってことに。
あの状況を説明するのにこんなにぴったりな言葉はない。でも当時は認識することができなかった。

 

仕事というのはある程度嫌な思いをしながらやるものだと思っていたから。
毎月振り込まれる給与にはその我慢料も含まれていると思っていたから。

(一体全体こんな考えはどこから刷り込まれたんだろうか。自分でも疑問だ。)

 

土日もなく、常に上司のことが頭から離れなかった。
会社のほかの人達の前で詰められ思わず泣いてしまった時もあったけど、誰もが我関せずのスタンスで、止めに入ってはくれなかった。

仕事とは、会社とはそのようなものかと私も思っていたし、給与をもらっている以上はどんな仕事でもやらなきゃいけないんだと思っていた。

上司の無茶ぶりとそれをこなしきれず怒られ続けていたことで、自分の価値をまったく見いだせなくなっていた。

言外にそう言われ続けて、自分はみっともなくてがさつな人間だとも思うようになった。

本気で死にたくて、でも自分は間違っていないような気もどこかでしていて(NY的なマインドが少しだけ残っていた)、上司と会社への怒りが常に自分の中に渦巻いていた。

 

抜毛はものすごかったと思うけど、記憶にあまり残っていない。

 

憧れていた業界で働くことの熱意も、築きたいと思っていたキャリアも、どうでもよくなってしまった。

ここにいたら潰れる。そう思って社長に辞めると言った。

「今まで見ないふりをしてきて悪かった」と彼は言った。

なんだ、知ってたんじゃん。

部署を変えてもらうということで落ち着き、そこでしばらく働いた。

 

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