日常で感じたこと

Netflix『私は世界一幸運よ』 傷を負った女性の再生の物語

海外での暮らしは、慣れるまでは生活しているだけで体力気力ともに削られるものがある。

新しくキャリアを切り開きたくてこちらに来たのだけれど、苦戦中で正直なところエネルギーが切れてしまいそう。

 

そこで、Tinder詐欺師、令嬢アンナと、最近Netflixで野心溢れる人間の物語を探しては観ている。

そしてオススメに出てきたのが『私は世界一幸運よ』だった。

今週は日本のランキングに入っていたみたいだね。日本の女の子たちがどういう気持ちでこの作品を観ているのかとても気になる。

 

だって、第一印象とこれほどかけ離れた作品もなかなかないだろうから。

 

出だしはマンハッタンを闊歩するスタイルのよい女性アーニー。『セックスアンドザシティー』や『プラダを着た悪魔』と繋がった世界観のように見える。

 

雑誌の記者としての仕事もバリバリ、上司からの信頼も厚い。そして上流階級のグッドルッキングなフィアンセとの結婚式も間近という、成功を絵に描いたような女性だ。

 

彼女のこの成功は、努力の上に成り立っているということが描写されていく。

婚約者との食事では「もうお腹いっぱい〜」「君って本当に少食だよね」というおそらくいつも通りの会話をしたあとで、彼が席を立った隙に残ったピザのスライスを口に押し込む。多分、これもいつも通りに。

 

階級の違う彼の両親に会うために、ブランド物のディスカウントの店でそれに見合った服を漁る。

 

彼女の上昇志向が垣間見え、私はアーニーに共感を覚える。それと同時に私は彼女のように上昇し続ける努力を続けることはできないなとも思う。

だってそれは果てしない努力だ。

 

下へ下へと自分を運んでいくエスカレーターを、その速度に負けないように登っていく一歩一歩の繰り返し。終わりがなく、時に痛みを伴う。それでもアーニーはそれを望んでいる。

 

ある日、映像監督を名乗る人物がアーニーの職場を訪ねてくる。君が生き延びた高校銃撃事件のドキュメンタリーを撮るのでぜひカメラの前で証言をしてほしい。

 

ここで私たち観客はアーニーが高校銃撃事件の生き残りであると知らされる。そして彼女に共犯の疑惑があるとのことも。

 

唐突に予想外のヘビーな展開にウッとなった。現実にアメリカの学校での銃撃事件は本当に多くて、そして後を絶たない。これだけの犠牲者が出ているにもかかわらず、銃規制は進んでいない。

 

アーニーの上昇志向の理由がひとつわかった気になった。彼女はこのトラウマを乗り越えて強い自分になり、全てを手に入れて成功したいのではないかと。

 

アーニーの地獄にはまだ続きがあることを仄めかされたとき、絶望感を感じた。

彼女は同じ高校での集団での性的暴行の被害者でもあったのだ。

 

お願い、回想シーンよ来ないでと願いながら、私は画面から目を話すことができなかった。

 

一人の人にどれだけのトラウマ体験が降りかかるんだろう。

集団暴行と銃撃がどのように繋がるのか。別々の独立した事件だったのか。

 

なんて残酷な物語を作ったんだ。。。。まさか、実話じゃない、よね?

 

結論からいえば、これは一部の事実を元にしたフィクションで、

そしてこの物語の中では集団暴行と銃撃には因果関係の流れがあった。

 

高校時代のある日のパーティーでアーニーがスクールカースト上位の生徒たちから性的な暴行を受ける。命からがら逃げ出してきたアーニーは、後日そのことを別の友人アーサーとベンに打ち明ける。

 

そのアーサーとベンはスクールカーストでいうところのもう少し下の位で、過去に同じ相手からひどいいじめを受けていた。

 

自分の尊厳のために戦え!というアーサーに対して、暴行のことをなかったことにして日常に戻りたいアーニー。

このすれ違いが火種になる。ある日、そのアーサーとディーンが銃を持って学校にやってきて復讐を試みる。

 

「俺たちが仇を取ってやる」みたいな、アーニーへ向けられた頷きが、その後彼女の共犯疑惑へと繋がる。

 

この展開に突拍子もない感じがする?私はこの因果関係にかなり納得できた。

銃撃犯になった子たちの犯人像は少し違うのではないかという印象をもったけれど。

(ガスヴァンサントの『エレファント』のほうがこのあたりの描写(むしろしないこと)が説得力があると思っている。)

 

多数の被害者を出してこの事件は終幕する。

この事件で、性的暴行の加害者だったディーンは下半身部髄の重症を負った。

 

アーニーは想像を絶するような深い傷を抱えることになる。

追い討ちをかけるように辛かったのは、アーニーの傷を母親が非難したことだった。

 

自分の娘はあまりにもマセていて、自分があれだけ注意したのに行いを変えなかったからこんな目にあったのだと。「娼婦をみるような目で見られた」というアーニーの述懐が辛い。

 

性的暴行を受けた娘にこんな言葉をかけるなんて、本当にどうかしてる。

 

私には、自分の上昇志向を娘に引き継がせて、金持ちの集う私立高校に放り込んだ母親も元凶のひとつに思えてならない。

 

婚約者の家族との顔合わせでは、一人場違いな言動をするような母親をアーニーは好きなふりをして尊敬していることにしなくてはいけない。

 

もうこの時点で何重にもしんどいのよね。

しかしまだ物語には続きがある。

 

一度は断ったドキュメンタリーの取材をアーニーは受けることにする。

 

性的暴行の加害者で、銃撃事件の被害者でもあるディーンと絶対に顔を合わせないことを条件に撮影に望む。

 

このディーンというやつが本当に許せないほど邪悪な存在で、弱者を虐げてうまく立ち回るタイプの男性の卑怯なところを煮詰めたようなやつだった。

 

自分がアーニーを性的に暴行したことはなかったことにし、銃撃事件の被害者としてだけ生きている。車椅子ユーザーになったことをアピールし、回顧録のような本まで出版して、ある種の社会的地位を築いている。

 

そしてアーニーが銃撃事件の共犯だという噂を流したのもこの男だった。

 

ある一面では被害者であり、そして別の一面では加害者であるということは人間生きていれば誰しもありうる。

自分の加害を意図的に、もしくは無意識的に無視した上で被害者である面だけを強調するのは本当にいかがなものだろうと思う。

アーニーは性的被害にあっても、自分の落ち度がなかったのかとさらに問われる状況であるというのに。

 

アーニーの転換点はどこだったんだろう?

ドキュメンタリーをきっかけに自分の傷に向かい合おうとし始め、結婚式が目前に迫った夫との関係がギクシャクしはじめ、セックスがどうしてもできなくなり、キャリア上の大きな選択を迫られる。

 

彼女は限界点を迎えたんだと思う。

男性不審の限界は、やがては愛しているはずの夫にも向いてしまった。

自分の本来の意に沿わない上昇志向の限界。

母親や夫の家族を好きなふりをする限界。

過去のトラウマに蓋をして生きることへの限界が。

 

アーニーは自分の経験を言葉にしてみる。A4の紙二、三枚にまとめられたそれを見せると上司は「18歳の自分に、怒る以外の選択肢があることを教えてあげたかった」と自分も同様の経験をしたことを教える。

 

そしてメモへのダメ出しも。

”あなたを愛する人や裏切った連中をこんな漠然とした書き方でかばうのはやめなさい。”

なにもかもをさらけ出しなさい。と。

 

”もう一度書き直して。誰も読まないと思って書くの。””それではじめていい文章がかける”

(原文だと「それでようやく読むに値する文章になる」)

 

このセリフにはハッとさせられるものがあった。

自分が被害者であると認識できていながらも、加害者や社会を免責するかのような「配慮」をしてしまうときがある。女性ならわかると思う。

こういう迷いやお行儀のよさをかなぐり捨てて書けと、この人は言っているのだと私には伝わった。

 

その言葉を胸に、終盤でディーンと対峙したときのアーニーは容赦がなかった。

彼を優しく追い詰め言質を取る。

 

そして言って聞かせたセリフは、あまりにも本質的だと思った。

 

”あなたみたいな人と私の違いは分かる?私とアーサーとの違い。私も信じられないぐらい怒ってた。でも私の怒りは一酸化炭素と同じ。無味無臭で透明。そしてものすごく毒性が高い。でも毒されるのは私だけ。私は他の誰かに怒りをぶつけなかった。”

 

これは、本当にそう。

一般に凶悪犯のほとんどが男性であること、女性は怒りや抑圧を自分にむける傾向があることは自明だと思う。(もちろんどちらも例外はある。)

9割が女性と言われる抜毛症だってきっとこの一環であると思う。

 

アーニーは自分の経験を糧にして、きちんと自分の人生を歩もうとする。

私は一人の女性の再生をみた、と思った。

 

この映画はトキシックな男性性、その世界を生き延びてきた女性を現実的に描くことで、プロミシング・ヤング・ウーマンよりも秀逸だと思った。

 

多いテーマ(集団暴行、高校銃撃、母娘)を見事に一つの物語に編み込んでいるという点で

で、同じ高校銃撃をテーマにしたエレファントよりも生々しい痛みを感じさせるものでもあった。

 

この経験をすべてした上で、「私は世界一幸運よ」と言える強さが眩しい。

女は(人間は)強いのだと教えてくれる。

 

ミラ・クニスあっぱれでした。彼女や小池栄子のような強い女性が、弱々しさのある人物を演じているのをみると私はとってもグッとくる。

 

※気になる人も多いだろうと思うので補足:これが実話かどうかという点について。

英語版ウィキペディアによると、最初はフィクションとして発表された。のちに作者が性的暴行の被害の経験があることを公表した。
なので一応フィクションではあるものの、一部は作者の実際の経験に基づくというのが今のところわかっていることです。